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-分かっていますか?何が問題なのか-
第60回 景観とメンテナンス(その1)-計画・設計時の景観は重視しても、メンテナンスの時は?-

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎

公開日:2021.12.01

1.はじめに

 今年の秋、10月27日(水曜日)に本四架橋プロジェクトの中央、児島・坂出ルート(瀬戸大橋)について語る講演会があった。多分、私の連載を毎回読まれている方々は橋梁に関係する話題が好きな方が多いので、かなりの方々が興味深く聴講されたと思う。
 講演会の表題は、「四国島民四百万人の悲願であった瀬戸大橋の建設 ~本州と四国を初めて陸続きに~」であった。読者の方は十分お分かりで、私が説明するまでもないとは思うが、島国日本は、北は北海道から、南は沖縄まで多くの島があり、最も大きい島、本州と他の島を陸路でつなぐ架橋構想は数多く存在し、既にその多くが実現されてきた。中でも、本州と四国を結ぶ本四架橋構想は、橋梁に携わる技術者に多くの夢と希望を与え、我が国の最先端橋梁技術を世界に示した代表事例でもある。
 私自身としては、超大橋技術(長大橋ではない)の結晶・成果である本四架橋プロジェクトの現地を何度か訪れ、3ルートそれぞれを見てきたが、何れのルートもその地方独特の個性を感じ、日本が世界に誇る橋梁が創り出す美しい景観を築き上げていると何度も感動し、今でも時々当時の資料を読み返している。
 特に、潮が渦巻く海峡を跨ぐ超大橋は、海の群青色、木々の緑、黄、橙、赤色などの空間に三次元の構築物が浮かび、季節ごとに種々な表情を見せ、見る者に多くの感動を与え続けている。さてここで、我が国のビッグプロジェクト、最先端技術を駆使した本四架橋について、読者の方々と私が共通のテーブルに乗るように一部を紹介し、今回の主題導入編としよう。

 本四架橋、本州と四国を陸路で結ぶ構想は、1889年(明治22年)に香川県議会議員の大久保諶之丞が提案したのが始まりと言われ、明治から大正と時代は進むが、構想の実現化は遅々として進まなかった。日本の多くの人々が夢と思っていた本四架橋構想は、1955年(昭和30年)5月11日に発生した国鉄宇高連絡船「紫雲丸」の海難事故が契機となり、実現化に向かって急速に動き出した。悲惨な大事故が起きると社会、そして政府が動くのは、古代から現代まで共通している。
 本四架橋プロジェクトは、1978年(昭和53年)10月10日の 児島・坂出ルート(瀬戸大橋)道路鉄道併用橋の着工が本格スタートではある。実はその3年前、私が社会人となった翌年、1975年(昭和50年)12月21日、 瀬戸内しまなみ海道、尾道・今治ルート、海の難所であった「鼻栗瀬戸」を跨ぐ大三島橋が着工している。大三島橋は、世界的なオイルショックで景気が停滞し本四架橋プロジェクトの実現が危ぶまれる中、「地域開発」の名目で架橋工事に着工した、まさに本四架橋プロジェクトの先駆けである。先行着手した大三島橋は、吊構造が多い本四架橋の橋梁群の中では珍しい単径間ソリッドリブ2ヒンジアーチ橋であり、暫定2車線の供用である。ここで暫定2車線と説明したのは、この後出てくる尾道大橋に繋がる。
 その後、神戸・鳴門ルートの吊橋、大鳴門橋が1976年(昭和51年)7月2日、大三島橋と同じ尾道・今治ルートの吊橋、因島大橋が1977年(昭和52年)1月8日と、早期完成を目指し、順次着工している。
 ここに挙げた本四架橋プロジェクトの部分着工経過を見ると、海峡を跨ぐ橋梁としては確実性が高く、外向きに目立たないアーチ橋に着手したことは、目標に向かって突き進む土建業に関係する政治家達のしたたかさを感じる。本四架橋の超大橋・橋梁群において採用している主な構造は、やはり吊橋が最も多く10橋、次が斜張橋で5橋、アーチ橋は僅か1橋である。本四架橋プロジェクトにおける橋梁の多くが海峡を渡河するので、当たり前と言えば当たり前ではあるが、圧倒的に吊橋が多い。
 私の学生時代に学んだ超大橋(海や湖を跨ぐ)に適する構造形式としては吊橋のみであったのが、社会人になってすぐに吊橋ではなく、斜張橋に触れることとなった。それはこれまで何度かお話ししている、横浜、大国埠頭に架かる大黒大橋である。「吊構造の超大橋梁イコール吊橋、超大橋は全て吊橋である」と思っていた学生時代の不勉強な自分を今振り返って考えてみると、お恥ずかしい低レベルである。読者からも、「不真面目、不勉強な学生」と厳しい評価を下されそうである。
 大黒大橋の桁下で説明された斜張橋の構造特性、高度な設計法、重要なケーブル(より線タイプ、平行線タイプ、被覆技術など)を含めた架設方法について留意点などを聞き、学んだことのない技術に触れた。そして、目の前のアンカレイジのないすっきりとした外観や、ケーブルの張り方、定着部の構造などを見て私は、これからは斜張橋の時代が来ると感じた。私が今、当時を振り返ると、埠頭に聳え立つような大黒大橋パイロンが、空にそそり立つ強烈なイメージ画像が頭の中に残っている。
 斜張橋・大黒大橋現地見学の帰りには、お決まりの反省会? を行うために、横浜中華街に行くことになった。路地裏にあった中華料理店での反省会では、我が国の超大橋架設技術、吊橋、斜張橋、そして米国、英国など海外の現状と技術動向などがテーマとなった。話題の中心には当然、本四架橋プロジェクトや斜張橋・尾道大橋の話があり、そして『尾道・志那そば』(現在よく言われている尾道ラーメン)の話で盛り上がった。

 数年後に斜張橋、『嫌』そうではなく、反省会で話題の一つとなった、脂が表面に浮いた中華そば、『尾道・志那そば』(写真-1参照)に、食荒しの私が惹かれたのが真実か、私は管外出張の候補地として選択し、広島県・尾道に行く機会が巡ってきた。


写真-1 尾道・志那そば(脂が表面に浮いているがあっさり味)

 私が最初に出会った図-1に示す斜張橋・大黒大橋は、支間長100.5m(大黒町側)、165.38m(大黒埠頭側)の2径間である。対する尾道大橋(図-2参照)は、国内で初めて支間長が200mを超えた、最大支間長215mの3径間連続鋼箱桁放射形斜張橋で、規模も大きく違っていた。


図-1 大黒大橋・横浜市/図-2 尾道大橋・広島県

 私の見た尾道大橋は、自動車専用道路として計画されたのか、図-3に示すように車道が2車線で、両側にある歩道はケーブル定着部が中央に陣取っていて極端に狭く、向島に歩いて渡るのに難儀であった。尾道・浄土寺山展望台から海峡(尾道水道)を渡る尾道大橋(1966年着工、1968年(昭和43年)竣工斜張橋)を見て、山並みの向こうに向島、因島、その先の生口島、そして靄の先に四国もが見えるような気がし、噂には聞いていた本四架橋プロジェクトの先鞭に触れる優越感が、自分の中でいっぱいになったのを今でも鮮明に覚えている。
 尾道三山の一つ『浄土寺奥の院』を参拝し、岩の上の展望台から尾道水道を見下ろしている時、案内して頂いた方から、先ほど見た尾道大橋に隣接して新たな架橋(新尾道大橋)の話があることを聞いた。私としては、先に見てきた自動車専用道路とも思えた尾道大橋は、本四架橋プロジェクト・尾道・今治ルートの一橋として計画され、架橋したと思って見たので、もう一橋架ける説明に大きな疑問を抱いた。
 後日、本四公団に在籍されていた佐伯さん(私が土木学会田中賞を頂いたPC斜張橋・木場公園大橋がトラブルを起こした時に委員長をお願いし、他の案件でも何度かお世話になった高度な専門技術者である佐伯彰一氏)に神戸でお会いした時、その理由が明らかとなった。
 当然、尾道大橋を本四架橋プロジェクトの尾道・今治ルートに架かる橋梁として利用する話はあったそうだが、地元の生活道路としての活用、将来の耐荷性能や耐久性能等を考えた結果、尾道大橋に並行して新橋を架けることに決まったとのことであった。図-4に私の見た尾道大橋とその後架設された、最大支間長も同じで姉妹橋のような、しかし何故か新しい雰囲気の漂う新尾道大橋の位置図を示した。図-5に示す奥に見えるのが2面吊り斜張橋の尾道大橋、手前が尾道・今治ルート(しまなみ海道)の1面吊りハーブ型斜張橋・新尾道大橋、新旧対比できる2橋の斜張橋である。


図-4 尾道水道を渡る、尾道大橋と新尾道大橋の位置図/図-5 本州・尾道側から新尾道大橋、尾道大橋、向島を見る

 私の見た尾道大橋は、事前の説明で耐候性鋼材の採用や風洞実験による耐風検討等を行ったと聞いていたが、現地で見ると斜張橋・補剛桁の桁断面としては小さく感じ、主桁側面に補剛材がないせいか貧相に思えた。私の脳裏に刻み込まれたのは、主桁を綾のように繋ぐ横構(横倒れ座屈防止等)が目立ったことである。あれから四十数年経た尾道大橋は、再び見る私に何を語り掛けるのか、先駆けとして使った耐候性鋼材には期待していた緻密さびができているのかなど、もう一度見たいものである。
 尾道を訪れる機会があればその時は、これまで二度、浮いた脂をかき分け、かき分け食べ、予想に反し、あっさり味でとても美味しかった、『尾道・志那そば』を是非また食べたい。門型パイロンとロックドコイルケーブルで構成される簡素さを追求し1968年(昭和43年)に架けられたランドマーク・尾道大橋と街中華、地元で人気の『尾道・志那そば』で話を締めた後は、私が心待ちにした講演のテーマ、瀬戸大橋(児島・坂出ルート)に話を戻すとしよう。

 実を言うと私は、何度も本四架橋プロジェクトを見学に訪れているが、講演の児島・坂出ルート(瀬戸大橋)にも三度ほど建設現場に行っている。今でも私が思い出すのは、倉敷の先、児島の船着場から櫃石島、岩黒島に工事用の渡船で渡り、本四架橋の吊橋下津井瀬戸大橋、櫃石島高架橋、斜張橋の櫃石島橋・岩黒島橋の現場である。両島とも数多くの重機が島内を行きかい、工事に従事する人々が一つの目的に向かって働く姿は確かに美しく、近代土木を肌で感じる空間であった。
 確か二度目に行った時、偶然、準大手のT建設会社が請け負った海上の橋梁基礎工事で人身事故が発生、全ての工事にストップがかかる緊急事態に出くわした。その時私は、いかに技術が進歩しようとも人身事故が発生することを実感するだけではなく、その場に何とも言えぬ重苦しい風が漂い、自分の身体が氷の中にいるように硬直していく異様な感覚を体験した。それにしても、人の命を犠牲にして巨大な構築物が完成するのは、今も昔も変わらない。ざわつく現場事務所で待機した私は、「現場で命を奪われるのはいつも、汗水たらして最前線で働く作業員なのだ!」と思い、それを変えるためには何をすれば良いのかと考えていた。あの事故以降、現場事故をなくすように行動し、施工管理基準等の整備、取り纏め等を行ってはいるが、無力の私では事故が起きる現実を変えることはできず、時だけが経ったと思う。

 今、ICT、IOT、ロボット、人工知能などを使って施工方法が大きく変わりつつあるが、建設事故がなくなることはない。私は、あれから数十年経た今でも工事現場に行くと、あの事故発生の時に鳴ったサイレンの音が耳の奥で聞こえるような気がしてならない。
 巨大構築物の建設によって、周辺環境や景観は大きく変わり、住民の生活も変わっていく。本四架橋前の櫃石島や岩黒島は、海に囲まれ、緑豊かで穏やかな風景が広がり、近代的な人工構造物は何もないのんびりした空気の漂う環境であったと思う。その一時代前の黄昏たような独特の田舎風景、環境が本四架橋の工事が始まると、多くの作業員が島に渡り、工事車両も数多く走り生活も一変、島民の生活環境も大きく変わっていった。
 私が本四架橋の海上にある工事現場に行くために渡船を待っている時、港に隣接する家屋にお住いの方から聞いた話である。頭にえんじ色の日本手ぬぐいを被ったおばさんが私に、「工事が始まる前は、家の鍵などかけたことはなかった。でもね~、今はだれが来るか分からないから何時でも鍵と戸締りが必要になった。嫌だね~、本当に」と、大きく変わっていく島内環境について、住民の真の思いを語ってくれた。私が東京から来たと言ったので、私に応えたおばさんは、多分工事計画関係者と勘違いし、若き私に島の実態を訴えたのかもしれないが。
 あの時私が聞いた住民の嘆き、変わる環境は私の田舎(過疎が進む静岡の山村)でも同様で、寂れかけた村は、水力発電用のロックフィルタイプの巨大なダム建設工事のために一気に景気付き、長閑な環境も緑豊かな水の映る景観も変わり果てた。建設工事が終わると、数あった旅館もなくなり、残ったのは冷たい石とコンクリートの塊と過疎化の進行、町村合併による役場の縮小である。私が小さいときに何度も飛び込み、遊んだ、ヤマメの住む清らかな渓流は二度と戻ることはない。
 私は自分の故郷の状況を見て、聞いて思うが、櫃石島や大黒島の住民にとって、昔の船による往来が良いのか、利便性向上をうたい文句とした現在の自動車による往来が良いのか、私には判断ができない。我々が住民に押し付ける利便性向上は、住民感情を大きく変え、無味乾燥な社会を創り出してしまったのではないだろうか? 私は櫃石島、岩黒島に時を経て行った時、巨大な人口構造物が島を貫き、様変わりしていく風景を見て、地元の多くの人がもろ手を挙げて本四架橋プロジェクトに賛同しているとはとても思えなかった。

 似通った話をしよう。私が関係していた業務に、伊豆大島から小笠原諸島までの島内橋梁や道路建設、災害復旧などがある。私自身が地元に寄り添い聞いた島民の生の意見は、「港や空港の工事は、我々の命や生活を守るから重要だ。しかし、あんた達が造っている島内の道路はなくても良い。大きな道路を造ってくれても、喜ぶのは土建屋だけで私達はちっとも嬉しくはないよ」と、島民と話す機会あるごとに言われてきた。
 私の連載を読む方々にも是非考えて貰いたい、土木行政の重要な課題である。ここまで長々とビッグプロジェクトと住民、そして風景、景観について話してきたが、以上の体験もあり、私は今回の講演会を楽しみに、講演会申し込みが開始されると真っ先に申し込んだ。その理由は、私が3度も行った児島・坂出ルート(瀬戸大橋)、私の今を創り出した貴重な多くの体験をし、次々と造り出される巨大な建造物に感激し、そして地元の人とも話し、真の声を聞いた記憶が蘇るであろうと思ったからである。

 本講演の紹介をWEBで見た時、私は、本四架橋・瀬戸大橋の裏話、他では聞けないような生の声が聞けるかと期待すると同時に、ひょっとしたら、私が行った櫃石島や岩黒島の話も出るかと半身ワクワクしていた。しかし今回の講演は、私の期待から大きく外れ、話しの多くは何時も聞いている、通り一遍、関連書籍や資料に出ていた話題ばかりであった。
 世界に誇る本四架橋プロジェクト、それも鉄道併用の児島・坂出ルートであり、当時の標準規格に大きく外れた技術や材料を駆使したルートである。それら、技術や材料を採用するためにどのような策を講じたのか、その過程で四苦八苦した真の声、裏話を聞きたかった。
 今回の講演を聞いて、期待外れであったと、がっかりしたのは私だけであろうか。私の連載読者の多くは、未公開情報で、通常、見ること聞くことも困難なノンフィクション話を期待して読んでいただいていると思う。であるから、少なくとも私の連載読者の方々は、今回の講演会を期待外れとする私の意見に賛同していただけると思っている。
 今後、本四架橋プロジェクトに関係する講演会を種々な団体や組織で予定しているのであれば、プロジェクトを進めていた核として機能した専門技術者、地元住民と直接接してきた技術者の語り、それに加えて現場の生の声を聞きたいものである。
 さて次は、これまで話した斜張橋、斜張橋を主体とする景観設計つながりで、斜張橋をランドマークとする都市景観の話をしよう。それも、オープンとなることがほとんどないと考える、景観設計とメンテナンスに関する話、今回の本題に移るとしよう。実名は伏せるが、ノンフィクションの話である。

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