道路構造物ジャーナルNET

第36回 三陸南地震、新潟県中越地震

次世代の技術者へ

土木学会コンクリート委員会顧問
(JR東日本コンサルタンツ株式会社)

石橋 忠良

公開日:2022.08.01

 地震の被害と復旧の経験を前回は阪神大震災について紹介しました。阪神大震災は他社への応援でしたが、続けて何度か経験した地震は私の所属していたJR東日本エリアでのものです。これらの地震の被害と復旧の経験を紹介します。

 阪神大震災の後、既設構造物に対して耐震補強が行われることになりました。それまでは過去の構造物の設計については、その設計時点の基準に合致していればそのままとされていました。例外は東海沖地震対策でした。静岡県を中心に東海沖地震が起こるであろうということで国として対策が行われていました。国鉄時代ですが、予想される地震動にて東海道新幹線の構造物を評価して、耐震性能が足らない構造物に対しての補強が行われています。この時に柱に鋼板を巻く耐震補強方法など、実験も行ない実構造物に適用しています。

1.三陸南地震;地震予知を信用せずに、すべてのエリアの新幹線の補強に

 阪神大震災の後に、既設構造物の耐震補強が始められました。そのエリアは、今後地震が起きる確率が高いといわれているエリアで、JR東日本のエリアでは首都圏と仙台地域が指定されていました。
 三陸南地震は、2003(平成15)年5月26日午後6時24分頃に発生しました。M7.1です。この地震で東北新幹線の盛岡-水沢江刺間の高架橋の柱22本に損傷が生じました。被害高架橋の場所を図-1に示します。


図-1 三陸南地震における東北新幹線の被害高架橋(SED21号(2003年11月) より)

 写真-1、2、3に損傷の状況を示します。


写真-1 第五猪鼻高架橋(469.301km)/写真-2 第三愛宕高架橋(433.500km)/写真-3 第二日詰高架橋(479.394km)

 高架橋の柱にひび割れとコンクリートの剥落は生じましたが、沈下したり、倒壊したものはなかったので、クラック注入と仮ベントの状況で翌日の5月27日夕方より新幹線は運転を再開しました。運転再開後に、鋼板巻きの耐震補強を行いました。復旧の状況を写真-4、5に示します。


写真-4・5 第二中野高架橋(460.500km)

 被害の生じた高架橋は数橋でした。マスコミから現地で、「被害高架橋の前後の同じような高架橋に被害が見られないのに、なぜこの高架橋が被害を受けたのか」と質問されました。これら被害の生じた高架橋は施工不良があったのでは、との質問でした。
 若い記者たちに理解してもらえるように、「大きな池に石を投げたときの波紋は、岸に跳ね返ったり、途中の小島で跳ね返ったりして波の高さもまちまちとなるでしょう。地表の下は地質が様々で、そのため地震の波も実際は場所ごとに異なるので、同じ高架橋が並んでいても、大きな波が来たところに被害が出たのだと思います。地表の下を正確に知ることは不可能なので、壊れた箇所は被害が生じやすい、いわゆる地震の通り道という箇所に当たっているのではないでしょうか」などと話したことを覚えています。

 新幹線高架橋は標準設計を用いているので、前後の被害のない高架橋も同じ設計図で造られています。高架橋の高さも同じなので、同じ設計の高架橋が連続しているのですが、数個の高架橋に被害が生じ、前後の高架橋が無被害であることを不思議に感じるのはやむを得ないのかもしれません。振動の伝わり方や、地盤の状況が微妙に異なるだけでこのような違いが出るのだと思います。
 解析でこれを証明するのは実際の地盤や、地震の波の伝わり方など、調査の精度などを考えると難しいと思っています。計算を精緻にしても、直接の地震波は得られていなく、地盤や構造物の調査やモデルの精度も高くないので、実務的には意味がないと感じています。

 ほんの数メートル場所が異なっても地盤の挙動は異なるという経験もしています。東日本大震災で私の住まいの付近は液状化の被害を受けました。埋立地で、私の家は被害を受けませんでしたが、道を挟んで10mほど離れた家は被害を受けました。このような状況が付近で多くみられました。数メートル離れるだけで状況が異なるので、実際を計算で評価するのはほぼ無理だと思いました。液状化の被害で家が傾きましたが、すぐに基礎の下にジャッキの受台を作り、ジャッキをかけて水平に直していました。液状化では構造物は壊れず、傾斜を直すだけなら、それほど大変ということもないのかとの印象でした。ただし、道路や下水など公共施設の復旧は大変でした。

 この東北新幹線の被害箇所は耐震補強の対象エリアに入っていませんでした。耐震補強の予定エリア以外で高架橋が被害を受けたことで、耐震補強を地震の予知を基にしたエリアに限定してはだめだということで、この地震の後に新幹線は全線の耐震補強をする方針となりました。地震予知は人間の寿命から考えた実用的なレベルでは、まだできないと割り切ったほうが良いのでしょう。

 現地には地震発生翌日の27日、途中まで運転している新幹線で行きました。当初は早朝に新木場からヘリで行くように手配してもらっていたのですが、天候が悪く有視界飛行のヘリでは難しいということで、急遽新幹線に変えました。途中まで運行しているので、その駅から車で、現地のJR社員の運転で被害現場に着きました。
 復旧方針は事前に指示していました。手に入る資材によって方法を変えることも考えなくてはいけませんが、そのようなこともなく現場は復旧が進んでいました。早朝の新幹線で行ったのですが、現地では集まっていたマスコミからの質問を受けることになりました。東北大学の鈴木先生も、現地でどこかのテレビ局のインタビューを受けていました。

 この地震で忘れられないことは、夕方まで現地で復旧の相談を受けたりしていたのですが、昼食の用意がされてなく、夕方の新幹線の運行再開後に駅に車で戻るまで、我々もJRの現地の関係者も何も口に入れずに過ごしたことです。現場の支援体制が普段から訓練されていないと、現地に技術者を送るのに力を使い切り、ほかに気がまわらないのだということも知らされました。
 当時の盛岡の支社長は、国鉄の入社同期のO氏でした。「マスコミからの質問など、よろしく」と何度か直接現場にいる私に連絡をくれるのですが、支社長の仕事でないかもしれませんが、食事には気がまわらなかったようです。その後は常に災害現場に行くときには食料の確保を自ら確認するように心がけてはいますが、つい確認を忘れて失敗することもあります。食い物のうらみはなかなか忘れないものです。

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