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⑫(最終回) 維持管理を支える人材育成と技術継承

山陽新幹線コンクリート構造物維持管理の20年を振り返って

西日本旅客鉄道株式会社
技術顧問

松田 好史

公開日:2022.06.16

3、人材育成

 この【連載】のテーマは人材育成である。「じんざい」には、人財、人材、人在、人罪という字をあてることができると何かで読んだことがある。人財は「自分でできる人」、人材は「教えが必要な人」、人在は「ただいるだけの人」、人罪は「やろうとしない人」を指すようであるが、ここでは人材を対象に、場合によっては高度専門技術者やキーパーソンとしての人財も含めて、述べることとしたい。

3-1、やる気を起こさせる動機付け

 個人の成長には、本人のやる気と環境が大きく左右する。一般的に、人をその気にさせるのは非常に難しいことである。「これは君にしかできない」と言って自負心を芽生えさせたり、「今、〇〇が技術的な課題になっている。是非、君が頑張って得た成果で会社や現場をリードして行って欲しい。そして、部下社員や仲間の指導を頼みたい。」と言って本人の可能性に期待していることを伝えることは、大きな効果がある。環境としては、挑戦的な仕事でその成果が目に見えることや成果を導く過程での適度のプレッシャーなどが当てはまる。本人のやる気も環境も、後述する学位取得において、私自身の経験から若手をその気にさせるために使った方法で、概ね期待通りの効果が得られたと思っている。

 人材育成においては教える側と教えられる側の考え方に、ギャップのあることが多い。集合研修で会社が教えるのは最低限必要なことと考えておいたほうが良いと思うが、教えられる側の人は、必要な教育は会社が全て与えてくれるものと思っていて、自分が知らない(分からない)のは、自分の努力不足よりも会社が教えないからと思っている人が少なからずいる。入社年次が違い過ぎる先輩には気軽に相談できないし価値観も共有できない場合が多い。一方、教える側は、これまで採用を抑えてきたこともあって、後輩を指導した経験が少なく自分の指導に自信が持てない。その裏返しで物言いが高圧的になりがちで、結果として若手が自由に言えない雰囲気を作っているところがある。国鉄末期からJRに移行した数年間の採用抑制や要員削減が少なからず当時の人材育成にマイナスの影響を与えていたと考えている。図-2は、構造物の維持管理に従事している社員の年齢構成の2003年度と2020年度との比較である。図-2より年齢構成のひずみが人材育成に影響していることが見て取れる。

図-2 構造物の維持管を行う社員の年齢構成

3-2、集中教育と自己研鑽

 教えられる側の社員にも機会があれば進んで勉強したいと考えている人が多い。研修センターに社員を集めて行う集合教育では、全員を対象に教育機会を与えているので、社員の底上げを図る教育の場合は効率的である。しかし、あまり受講意欲の湧かない集合研修を受講させられている社員もいるので、将来のキーパーソンとなる人財を育成する場合には、集合研修よりも集中研修が理にかなっている。人財育成では本人のやる気が大事なので、本人の意思を尊重して勉強したい人だけを集めて集中教育する「自主勉協会」を、当時、毎年開催した。あくまでも自分の時間での参加となるが必要な交通費は会社が面倒みてくれる社内研修スクーリングという仕組みを活用して、コンクリート診断士や土木鋼構造診断士や技術士などの受験講座、設計基礎などを教える設計研修を開催した。講師は構造技術室の社員と前年度資格試験に合格した京阪神エリアの社員が担当して週末の土曜日の毎月開催とした。遠くは金沢支社や福岡支社から参加する社員もいて、教える側も教えられる側も熱のこもった研修を行うことができたと考えている。

 当時の新入社員(総合職)は、入社後は全員保線現場の配属となって1年間実習し、その後、保線系統と保守土木系統に分かれて、グループ会社に2年間出向して実務を学ぶ、その後、支社などに戻って間接部門の経験をするというキャリアパスの仕組みができていた。しかし、この仕組みでは、将来の保守土木のキーパーソンとなる人財に設計基礎を教える時間がないことから、新たに「育成枠」という仕組みを作って、グループ会社出向期間を1.5年に短縮して構造技術室配属0.5年とすることで設計基礎を半年間みっちりと教えることにした。構造技術室の定員の枠外として育成目的で教育することで「育成枠」という名称としたが、3年ほどでキャリアパスの仕組みが変わり、育成枠での人財育成は短期間のものとなった。しかし、設計の理解は、構造物の維持管理を適切に実施していくうえで不可欠な能力であるので、入社後の早い時期に本人の能力や適性、意思などを確認しつつ、1割程度の社員を指定して集中教育を行うのが良いと考えている。

3-3、学位取得と人財育成

 私が京都大学から学位をいただいたのは、2005年3月である。JR西日本では、学位にチャレンジする者などいなかった当時に、なぜ、私が学位にチャレンジすることになったのか、余談ではあるが、人財育成に関連する事柄として以下に述べさせていただくこととしたい。

 確か1999年の山陽新幹線コンクリート問題が発生する1、2年前のことであったと記憶しているが、それがいつだったのかは定かではない。今は亡き北後征雄氏から、関西在住のコンクリート関係の技術者が京都大学の宮川豊章教授(当時)を囲んで懇談する場に誘われた。話題が豊富で、毎回誰かの研究報告や近況報告などを話題に大いに盛り上がっていた。私も、山陽新幹線コンクリート問題発生後の取り組みについて話題提供させていただいたこともあった。ある時、宮川先生が『皆さん、JR西日本の松田さんが学位にチャレンジされるようです。』と言われた。学位取得(論文博士)など考えてみたこともなかったので、驚いてお断りをしたと思うが、『JR西日本は山陽新幹線の維持管理等で非常に多くの取り組みをしているにも関わらず、社外に発表することが少ないので、残念ながら外からはJR西日本の顔が見えない。松田さんにはそんなJR西日本の先達になって欲しいのです。』と続けられた。学位にチャレンジと言っても、身近なところでは、宮川先生のもとで努力していた北後さんの姿しか見ていなかったが、宮川先生の説得力のある言葉に動機づけられ、多人数の席上で言われて後に引くこともできず、困って京都大学の朝倉俊弘准教授(当時)に相談した。

 朝倉先生は、JR鉄道総研から京都大学に来られて間もなかったと思うが、国鉄入社同期ということもあり、困ったときはいつも相談に乗っていただいていた。朝倉先生は、『査読付き論文を最低1編は書いていること。会社の全面的支援が得られること。家族の理解が得られること。私が学位取得を目指す社会人を受ける場合は、この3つの条件を満たしていることが前提と考えていますが、宮川先生から指名されるなんて、そんなありがたい話はない。冥利に尽きますよ。とにかく頑張って書きなさい。』と、逆に背中を強く押していただくことになった。そんなことがきっかけで、山陽新幹線コンクリート構造物の劣化の主要因が中性化であったことから、中性化や塩化物イオン量のバラつきと鉄筋腐食とを関連付けるというテーマで論文をまとめたいと、宮川先生にご指導をお願いしてデータを集め始めたが、1年もしないうちに建設工事部大阪工事事務所に異動することになった。元所属の現場の方々にあれこれデータ集めをお願いすることが難しくなり、宮川先生に事情を説明して、テーマを山陽新幹線ラーメン高架橋柱の耐震補強(【連載】第6回で報告済みのAPAT工法)に変えてやり直すことにした

 ある時、帰りの電車の中で北後さんとばったりと出会った。『松田さん、学位論文の執筆は進んでいますか?』と尋ねられ、『仕事の合間での執筆なので、中々進んでいません。』と答えた。いつもは穏やかな北後さんであるが、顔つきが少し厳しくなって、『土日も会社に出て来て執筆しないと、いつまで経っても仕上げられませんよ!!』と強くたしなめられた。自分でも何とかしないといけないと思っていたところであったので、最初は、土日のいずれか一日だけ出社するようにした。実験や解析は㈱奥村組の全面的協力をいただけた。APAT工法を思い出すたび、当時本当にお世話になった㈱奥村組の関係者のことを思い出す。平日は仕事が終わって19時前後から論文書きを始める毎日であった。筆があまり進まない日は22時には家に帰るようにした。筆が進む日は明け方近くまで頑張って、隣にあった大阪弥生会館で仮眠をしてから出社していたが、0時を過ぎても所長室に籠っているので、ライト片手に巡回してきた守衛から「所長、大丈夫ですか?」と声を掛けられることが何度かあった。守衛にしてみれば、所長室で一人で徹夜していることが理解できず、きっと何かに悩んでいるのでは?と、心配されたのであろう。

 宮川先生のご指導のお陰で、2005年3月に学位を授与していただくことができた。学位論文を100部製本印刷して関係者に郵送する段になって、印刷製本費と郵送費で25万円ほど用意しなければならないことになった。それまでの宿泊費や学位論文審査料などの費用はポケットマネーで対応していたが、額が額だけに困って、工事事務所の印刷費が年度末で余っていたので会社費用で印刷製本と郵送ができないか人事部長に相談した。『人財育成としての社会人ドクターの必要性やあなたの努力は理解できるし、余っている印刷費を使いたいという気持ちも分かりますが、初めてのことで会社支援の仕組みもないと思うので、少し考えさせてください。』とのことであったが、後日、『あなたは業務命令として学位にチャレンジしたのではなく、言い方は悪いかもしれないが、自分で勝手にチャレンジしたので、申し訳ないが支援できません。』ときっぱりと断られた。

 ご指導いただいた京都大学の宮川先生(主査)や副査の先生方にお礼を兼ねて学位論文の冊子を届ける新快速列車の車中で、福知山線列車事故の第一報(踏切事故が発生し列車が脱線している)を聞き、高槻駅で下車して本社に引き返した。2005年4月25日のことであった。もし、学位論文の執筆が遅れて、福知山線列車事故後の対応とダブっていたら、私の学位取得はどうなっていたか分からない。

 後日、改めて主査や副査の先生方にお礼に伺った際、主査の宮川先生から、『松田さん、これがゴールではありません。新たなスタートですよ。是非とも、後に続く人を育成してください。』と激励の言葉をいただいた。すぐに、人財育成と学位取得に係わる資料を作成して関係者や人事部に説明し、会社が業務推進上必要と認めた社員(管理職社員を含む)が大学院後期課程に入学して学位を取得する場合は、必要な費用を全額会社が負担するなど全面的に支援する仕組みを社内に整えた。私の印刷製本の件が伏線になっていたのか、事はすんなりと進んだ。以降2021年3月末までに、この仕組みを活用して施設部や建設工事部の土木系社員(18名)のみならず電気部や安全研究所の社員も学位を取得していて、先達としての責任の一端を果たせたと思っている。鉄道会社の強みは現場を持っていることである。現場の課題解決をテーマに実験や解析によって検証し、その成果を現場に実装して確認することができる。維持管理の現場においてはまだまだ分からないことがたくさんあるだけに、意欲のある社員にとっては、その数だけ道が開かれていると思っている。

3-4、余部鉄橋の橋守に想う

 私はこれまで社内外からの依頼を受けて構造物の維持管理に関する講演を何度も実施させていただいているが、講演の最後に決まって旧余部鉄橋(建設当時、東洋一といわれた鋼トレッスル橋(高さ41.5m、長さ310.7m))の橋守の話をすることにしている。

 旧余部鉄橋は、山陰本線東線の建設において最後の難関として立ちはだかったが、当時の鉄道土木技術の粋を集めて2年2カ月の歳月をかけて、1912年(明治45年)1月に完成した。このことにより、山陰本線東線(京都~出雲今市駅(現在の出雲市駅)間)が1912年3月に全通した。しかし日本海に面した過酷な塩害環境下にあったことから、建設から3年後の1915年(大正4年)には請負による塗り替え塗装が始まり、5年後の1917年(大正6年)からはレーシングバーなどの副部材の取り替えが始まった。当時の鉄道院は、1917年に、日本ペイント製造(株)(現在の日本ペイント(株))の塗装工であった望月保吉(当時21歳)と上倉音吉(当時19歳)の二人を採用した。二人は旧余部鉄橋の専属の橋守として、常に潮風に曝されている鉄橋を守るため、わずか数センチ四方の塗膜の異常を追い続け、繕い(つくろい)ケレンに明け暮れた。繕いケレンとは、サビ落しと塗装を併せた作業のことで、小さな塗膜の異常をハンマー、スクレーパー、ワイヤブラシ、ウエス等の手工具で取り除き、直ちに下塗り、中塗り、上塗りを行う作業である。手抜きやごまかしがあると、塗膜が長持ちしないばかりか、外見では見えない内部のサビを進行させることになるので、並み以上の丁寧さが必要であった。また、高所作業でありながら姿勢を保つことさえ困難な斜材での作業、部材の裏側や下側あるいは手が届きにくい狭い箇所の作業など、常に危険と非能率を余儀なくされることばかりであった。

 上倉は1935年(昭和10年)に死亡するまで、望月は1949年(昭和24年)3月に国鉄を退職するまで32年の長きにわたって、橋守一筋に余部鉄橋の保守に全力を注いだ。1954年(昭和29年)には余部鉄橋の橋守は一人になり、橋守制度は1965年(昭和40年)までの約50年間、のべ5人の橋守によって続けられた。
 しかし、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)以降はペイントや補修鋼材が不足して支給されなくなり、鉄橋の荒廃はその極みに達し、我が子のように守ってきた望月らにとっては、身を切られるような苦難の連続であったが、サビ放題の鉄橋をただ見守るしかなかった。1945年(昭和20年)8月の終戦によって、待望久しかったペイント1,000缶が支給された。望月ら二人の橋守は歓喜して、夏は焼け付くような熱さの鋼材にしがみつき、冬は吹き付ける寒風に身を曝し、ノミを研ぎスクレーパーを磨き、カンカン虫(繕いケレンのハンマーの音がカーン、カーンと余部の谷に響き渡ったことから、揶揄してカンカン虫と言われた)と呼ばれながらも塗装作業に明け暮れた。橋守達の献身的な努力があったからこそ、2010年(平成22年)8月の新余部橋梁(PC5径間連続エクストラドーズド箱桁橋、橋長310.6m、最大支間長82.5m)の使用開始までの約100年間、余部鉄橋はその機能を果たし続けることができたのである。


写真-1 旧余部鉄橋の橋守

 新余部橋梁が完成して土木学会田中賞受賞の記念メダルの設置作業で、再び現地を訪れることになった時、空の駅広場にモニュメントとして残されている建設当時のトレッスルの支柱にそっと手を押し当ててみると、カーン、カーンというハンマーの響きが聞こえてきて、胸が熱くなるのを禁じ得なかった。
20歳前後の若さで出身地の静岡県から遠く離れた余部に赴任し、生涯を余部鉄橋に捧げた望月や上倉の気概や矜持、鉄橋に対する愛情や使命感の源泉はどこから生まれたのだろうか。今、時代が進んで、私たちは大事なものを失いつつあるのではないか?失いつつあるとしたら、それはどうすれば取り戻せるのだろうか? 維持管理や維持管理に係る人材育成の重要性を含め、旧余部鉄橋から学ぶことは多いと考えている。

あとがき

山陽新幹線コンクリート構造物の維持管理に係った20年間を振り返って、1年間にわたりJR西日本の維持管理に関する考え方や取り組み内容等について連載させていただいた。山陽新幹線コンクリート構造物の早期劣化が社会問題化した当時は、維持管理に関する知見や情報が少なかったことから、(社)日本材料学会に委託していた「コンクリート構造物の維持管理に関する検討委員会(委員長:京都大学 宮川豊章教授(当時))」の委員各位のご指導のもと、ひとつずつ確認しながら実証的に進めざるを得なかった。時間がかかり大変なこともあったが、結果としては人材や人財育成も含めて様々な意味で良かったと思っている。1年間読んでいただいた読者の方々、資料集めにご協力いただいたJR西日本グループの関係者、執筆機会を与えていただいた㈱鋼構造出版の井手迫様に感謝しつつ、【連載】第12回で最終回とさせていただきます。ありがとうございました。

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