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-分かっていますか?何が問題なのか- 第53回 偉人・吉田巖から学ぶ ~為せば成る!七転び八起きの強い覇気と学ぶ力~

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎 氏

公開日:2020.03.01

1.2 吉田巖の生い立ちと転機

 吉田巖さんの功績として語られるのは、若戸大橋や本州四国連絡橋に関する報文や論文が多く、私自身も昨年まで吊橋や斜張橋イコール吉田巖さんであると思い込んでいた。その理由は、私がこれまで読んだ若戸大橋、本州四国連絡橋の下部工、特に基礎に関係する技術情報が常に頭から離れず、吉田巖さんは橋梁基礎、特にケーソン基礎の技術と経験が際立っている専門技術者と勘違いしていたからだ。
 つい先日、嫌、昨年末に長崎・西海橋がその原点であることが、私自身20数年の年月を経てようやく分かった。なぜ分かったといえば、長崎大学システム科学部門の中村聖三教授から新年、長崎大学で講演の機会を与えられたからである。講演するにあたって事前に調査する過程で、長崎の種々な橋梁、特に西海橋についてはより細かい調査が必要となった。
 ここで、長崎・西海橋の紹介をしよう。西海橋は、『魔の海峡』と呼ばれた伊ノ浦瀬戸を跨ぐ上路式の鋼製単アーチ橋で、戦後間もない物資の十分でない1950年(昭和25年)に着工、5年後の1955年(昭和30年)に竣工した道路橋である。西海橋架橋当時は、世界3番目の支間長を誇り、東洋一の長大アーチ橋であり、使われた鋼橋製作・架設技術が卓越していたことから戦後日本の長大橋建設の原点と言われている。

 西海橋の製作・架設は、その後の若戸大橋、関門大橋、本州四国連絡橋へと繋がる日本の橋梁技術発展の起点でもある。製作技術の特筆すべき点は、互換性製作法を活用することによって、100mを超えるブレースドリブアーチの4分の1部材を一体のみ平置き仮組だけで現場に輸送している。これだけの大きさであること、そして主構造が曲線ブレースドリブであることを考えると、私であれば片側2分の1を製品単位で立体仮組しても、現地で本当に組めるのか心配になる。それをせずに、4分の一平置き仮組だけで全体を精度高く組み上げる自信が、製作した技術者とそれを監督した吉田巖さんにはあったということであろう。
 架設工法にも特筆すべきことがある。西海橋の架設工法は、伊ノ浦瀬戸が水深40m、幅400mで最大潮流が時速16.67kmと非常に速いことから、海上に支保工を築造できず、世界初のタイバックシステムによる突出式吊出し工法を採用したことでも有名な橋梁である。

 ここまで長崎訪問前に分かってくれば、私自身、西海橋を見ないで東京の自宅に帰るわけにはいかない(私は、何度か長崎を訪れているが、恥ずかしいかな、一度も著名な西海橋を見たことがないのだ)。このようなことから当然、今年1月の長崎大学訪問時には、嫌われても良いから中村教授に西海橋視察をお願いしたしだいだ。
 お忙しい中村教授は嫌がりもせず、不勉強者の私に特段の便宜を図り、ご自慢の素敵な新車で西海橋など長崎の誇る重要なビューポイントをご案内いただいた。橋梁マニアを自負する私は、赤い高欄が際立つ西海橋を木製のウオークデッキなど種々な視点から見させていただき、周囲の景観に溶け込む外観と構造美、完成度の高い上路式ブレースドリブ・鋼アーチに感動したのは言うまでもない。
 その時、同行された岡林隆敏長崎大学名誉教授の解説で、普通では気づくことはない橋台の海峡側面に位置する橋歴版(図-3)を見ることができた。図中の矢印を見てほしい。吉田巖さんが西海橋設計のメンバーであることが分かる現地の貴重な情報源である。


図-3  西海橋の橋歴版

 西海橋の橋歴版は、竣工時に橋台の袖、側面に設置され、確認するには橋上から頭を出して覗き込むか、若しくは急斜面を降りる方法しかなかったのだ。しかし現在は、岡林名誉教授の国の登録文化財指定に向けた調査と活動が実り、登録文化財指定後、橋詰め広場にも複製版が設置され、誰でもが容易に見ることが可能な状態となっている。長崎を訪れる機会があれば、ぜひ足を延ばして海峡を跨ぐ美しい西海橋を見に行ってもらいたい。そして、西海橋の橋詰めにある設計・施工関係者の氏名が刻まれた橋歴版を、これから本稿で話す吉田巖さんの話とダブらせ、西海橋に従事した素晴らしい技術者集団を思い浮かべて見てほしい。

 私は、吉田巖さんと西海橋を結びつける種々な資料を調べている過程で吉田巖さんは、上部工にも非常に高度な技術を持つ、オールラウンドの橋梁専門技術者なのだと痛感させられた。このことは読者の多くの方々にとっては周知のことで、髙木が不勉強なだけだと指摘する声が聞こえてくる。
 私の何時ものことではあるが、人を一面のみで見て判断することが多々ある。その理由は、私がおっちょこちょいの性格であるからであり、これで多くの人に御迷惑をお掛けしているし、早とちりも今に始まったことではない。確かに吉田巖さんと会って、話していた時、23年前の私は誤っていた。私自身思う、吉田巖さんの真の功績を十分に理解せずに話していた自分は恐ろしい。
 吉田巖さんもたぶん同様で、先に話した会話も含め、「髙木、こいつは、俺の持つ技術を良く分かっていない失礼な若造だな! まあ、世話になった東京都の鈴木俊男さんや青木重雄さんに免じて少しの間我慢しよう」と思っていたに違いない。その理由は、私にはメガネの奥の目がちっともにこやかではなかったからである。

 もしも、時を戻すことが可能であればぜひ20年前に戻してもらいたい。そうなったとしたら、吉田巖さんに怒られ、怒鳴られても良いから、何時も私が言っている『博打根性』丸出しで、高度な技術論以外の種々な話、例えば共通の話題、好きなゴルフの話でもしてみようと思っている。ゴルフであれば、吉田巖さんのほうが私よりも腕前が上でも、好き者同士、ゴルフ談議に花が咲く。
 もう一度言おう、吉田巖さんが亡くなられたことは、とても残念だ。次も吉田巖さんの趣味の話だ。吉田巖さんは、ゴルフも好きだったそうだが、それ以上に釣り好きで、海釣り、渓流釣り、『なんでもござれ』の太公望だったそうである。写真-3は、太公望・吉田巖が振り返った姿である。船上の吉田巖さんの姿はなかなか見ることはできないが、私には釣り好きの目が輝いて見える。
 写真-4は、私の友人、吉田巖さんにこよなく愛されていた、太公望・谷倉泉さん(施工技術総合研究所 技師長で、今回の写真提供者)に好きな酒を注ぐ姿である。この2枚の写真を見ると、厳格な技術者・吉田巖ではなく、親しみの湧く親分肌丸出しの吉田巖さんだ。


写真-3  太公望・吉田巖さん見返り姿/写真-4 吉田巖さんが釣り仲間・谷倉氏に酒を注ぐ

 私にとって、何とも不思議な感じのする景色だが、これが本当の吉田巖の姿であろう。私も谷倉さんのような、ほんのりと温かみを感じる雰囲気の中で、お酒を注いで貰いたかった。吉田巖さんと私とが、厳しくともにこやかな目で接し、酒を注いで貰ったならば、さぞかし美味しい美酒となるであろう。

 随分と時間を食ったが、ここで偉人、そして並外れた能力のある橋梁専門技術者と言われる吉田巖さん本人の話を始めよう。
 吉田巖さんを良く知っておられる方には、「髙木が何で吉田巖氏を語るのか? 君じゃないだろう、吉田巖氏を語るに相応しい人はもっと高いレベルの技術者でなくては」とお叱りを受けるのは覚悟のうえで、私の独断で吉田巖を語るとする。知りもしない髙木が語る吉田巖は読みたくない、と思われる方はこれ以降飛ばして貰って結構である。まずは、吉田巖さんの履歴を表-1に紹介する。吉田巖さんの履歴と対比して、少し細かく解説しよう。
 吉田巖さんは、大正15年の6月、東京都の世田谷で職業軍人の長男として生まれ、父のあとを継ぐように仙台陸軍幼年学校から士官学校に進み、本科で終戦を迎えている。
 吉田巖さんの強面と骨太の体形は、職業軍人を目指した人であるからだったのである。吉田巖さんの如何なることにも動揺せずに、自分自身を失わない基本はここにあったのだ。
 終戦を迎えた吉田巖・陸士は、一高に進まず東京都立高校に進んでいる。その理由がなんとまあ、士官学校で英語、ドイツ語、フランス語ではなく、ロシア語を学んでいた結果の最終選択肢だったようだ。ということは、戦渦の中、士官学校では、連合軍の英語やフランス語ではなくロシア語を主として教えていたことになる。
 私の歴史感覚も怪しいが、日本と同盟国のナチスドイツの母国語であるドイツ語が士官学校の必須外国語ではないのが、私には理解できない。それはそれとして、高校での吉田巖さんは化学が好きで、特に実験にのめり込んでいたそうである。このまま進めば、大学も化学の道、応用化学へと行くはずであったが、ここで第一の転機を迎える。
 応用化学とは、人々の生活を豊かにする新しい物質の研究・開発を行う、実験が主体の学域である。そうなると、吉田巖さんが応用化学の道を選んでいたとしたら、昨年のノーベル受賞者・吉野彰氏と同様な偉人としての存在感を示し、世界に誇れる実務研究者になっていたであろう。
 しかし、吉田巖さんの道は違った方向に開かれた。吉田巖さんの道が決まろうとした時に高校の隣のクラスに在籍していた友人が、化学ではなく土木分野に進学を希望、ここで土木工学に触れることになる。何故そうなったかと言うと、それは友人が「土木を希望するのは俺しかいないのか」とぼやくのを吉田巖さんが聞いてしまったからである。それを聞いた友人思いの吉田巖さんの心は、土木へと大きく舵を切ったのだ。
 何時の世界でも土木部門は人気がない。当時もそうだったのか! これを知った私は悲しくなった。吉田巖さんは、フラスコをいじっている化学実験の緻密な作業より、友人から聞いたところの土木は男らしく逞しい、陸士出の自分に相応しいと思った。そして、昭和22年に東京帝国大学第二工学部(昭和17年に創設、校舎は現在の西千葉、千葉大学弥生キャンパス)に進学することになった。

 吉田巖さんの進んだ東京帝国大学第二工学部の説明をしよう。第二工学部とは、軍事産業を支える工学者や技術者を養成するために1942年(昭和17年)4月に設置された工学系学部で、機械、電気、土木、建築、船舶、造兵、応用化学、冶金、航空、航空原動機の10学科で構成され、東京帝国大学の伝統と産業にも目を配った教育が特徴であった。
 第二工学部に進学した吉田巖さんを至難が襲う。吉田巖さんは、父親を戦死で亡くした一家を背負い、学費を稼ぐために続けたアルバイトと勉学によって体を蝕まれ、悲しいかな3年間大学を休学せざるを得なくなる。
 当時を振り返って吉田巖さんは、この3年間を「我慢と忍耐を教えてくれた貴重な3年間であった」と話されているが、偉人は自らに降りかかる苦難に対し考えることも凡人とは違う。不屈の精神、マイナス思考、ネガティブ思考ではなく、プラス思考が吉田巖さんなのだ。吉田巖さんが休学中、東京帝国大学も状況が変わり、1951年(昭和26年)3月に第二工学部は閉校することになった。復学後の吉田巖さんにおいては、これまでよりもさらに波乱万丈の人生が始まる。吉田巖さん第二の転機である。
 吉田巖さん卒業時の志望は道路ではなく、鉄道に思い入れがあったようだ。しかし、ここでも吉田巖さんの希望を変更せざるを得ない事態が次々と起った。吉田巖さんは、当然のように国鉄を受けたが、「長期休学した学生を国鉄はとらない」と断られ、仕方なく私鉄の東急電鉄入社試験を受け内定している。
 鉄道、特に国鉄入社を就職先として選択した理由を私なりに考えると、第二工学部の教授陣に沼田政矩(鉄道・鉄道省)、釘宮磐(施工法・鉄道省)、堀武男(土質・鉄道省)の3人がおり、橋梁を福田武雄が担当していたことから、吉田巖さんは鉄道、特に土木技術を牽引していた国鉄への道を選ぶことが我が道と考えたのであろう。
 東急電鉄に内定した吉田巖さんに、鉄道マンへの道を変えるとんでもない事態が起る。少し時間が遡るが、病明けの吉田巖さんは卒業論文を書くにあたって、外業や実験を行う体力のない自分の現状を考え、平井研究室のアルバイト、長崎県の伊ノ浦橋の応力計算を卒業論文として選んでいる。これが吉田巖さんの橋梁専門技術者への道を決める、第三の転機、人生最大の選択となった。

 当時の東京帝国大学第一工学部の教授には、田中豊、吉田徳次郎が陣取り、助教授には、最上武雄、平井敦がいたことを考えると、新進気鋭の福田武雄の厳格さと緻密さが功を奏したのか? 第二工学部の方針、実務に役立つ学問の追求が吉田巖さんにも大きな影響を与えたのか、第二工学部の教育方針、ケーススタディを取り入れた論文『伊ノ浦瀬戸における無鉄筋のアーチ橋梁の高度な応力計算』(別の資料によると、『大村湾口の架橋設計』との表記がある。卒論の表題としては先の『伊ノ浦瀬戸における無鉄筋のアーチ橋梁の高度な応力計算』が適当な気もするが、表題に無鉄筋のアーチ橋とあるのが気になる)執筆が始まった。そして、手探り状態で鋼上路アーチ橋梁の高度な応力計算を纏め上げ、卒業論文ができ上がった。
 私もこの記述を見て、ぜひ吉田巖さんの卒業論文を拝見したいと多くの人にお願いして探してはみたが、未だ入手できてはいない。もし読者の方々の中で、吉田巖さんの卒業論文『伊ノ浦瀬戸における無鉄筋のアーチ橋梁の高度な応力計算』をお持ちの方がいるならば、ぜひ見せていただきたい。

 卒業論文を書き終えた吉田巖さんは、同年の学生より3年遅れの1954年(昭和29年)3月に、東京大学を卒業する。(吉田巖さんは第二工学部最後の卒業生、第二工学部は1951年(昭和26年)に廃止されているが、東京大学生産技術研究所が後継である。吉田巖さんは、東京大学同窓会名簿によると何故か昭和28年3月卒業となっている。同年の卒業生には、議員も務めた有名な沓掛哲男氏、道路の多田宏行氏、ダムの堀和夫氏ほか、蒼々たるメンバーでいる)
 就職先を変更する吉田巖さんの話に戻そう。偉人・吉田巖の人生これからが凄い。学生の時から注目されていたとしても一学生の卒後論文を社会人、それも役人が見るかな? と大いに疑問は湧くがそれはそれとして、東急電鉄に内定している吉田巖さんの望みを覆す大事件が起る。
 吉田巖さんの卒業論文は、なぜか伊ノ浦橋建設に従事する技術者(建設省)の目に留まり、伊ノ浦橋架橋に必要不可欠な人材であるとの評価を受けたようである。そうなると、学生吉田巖さんの鉄道分野に行きたい望みは悲しいかな、諸先輩の強力な圧力によってものの見事に砕かれ、東急電鉄入社を辞退する。
 そして吉田巖さんは、勧められるまま建設省の採用試験を受け、先輩方の思惑通り建設省に入省となる。20代半ばの学生が、戦後の封建制度が幅を利かす時代、縦割り社会において、大学の先輩から口説かれれば誘いを断る道はなかったのであろう。
 私なりに考えると、吉田巖さん自身も道路橋の道を歩んだことは不幸な道を選んでしまったと、後悔した場面があるのではとも思う。本人に聞いてみなければ分からないが、終戦から高校進学、大学生活そして社会人生活、後悔、後悔の連続だったなと思っていたかも知れない。私が吉田巖さんの世界を考えると、応用力学から土木工学への転身、教授を退官してはいたが著名な田中豊、釘宮磐、堀武男など蒼々たるメンバーが関係している鉄道関係から道路関係への転職、まるで物語のような人生である。波乱万丈の人生を生き抜く吉田巖さんは1954年(昭和29年)4月に建設省、そして伊ノ浦橋(仮称)の建設拠点である九州地方建設局・伊ノ浦橋工事事務所(のち西海橋工事事務所)に配属された。

 ここでお断りしておく、吉田巖さんの卒業年次は、先にも示したが1953年(昭和28)年3月との資料(現在の東京大学卒業生名簿)もある。しかし、参考文献(東京大学第二工学部土木工学における教育と環境)によると、分校卒業年が1954年(昭和29年)3月との記述があること、吉田巖さんが28歳で入省との記録があったので1954年卒を正とした。吉田巖さんの偉人・橋梁専門技術者を語る私としては、吉田巖さんの卒業年次はあまり問題とならないと考え、関連資料を調べはしたが最終的な結論に至ってはいない。

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