道路構造物ジャーナルNET

第50回 「人」「人財」「技術者教育」

民間と行政、双方の間から見えるもの

富山市
建設技術統括監

植野 芳彦

公開日:2020.01.16

3.そこで考えること(私の経験から)

 基本は、プロジェクトも人生もマネジメントが重要である。それ以上に、人脈というか人間関係が重要であると考えている。わたしの、人生は、これまでは失敗の連続である。がゆえに、余人にはない、経験をしてきたわけである。

 出身は栃木県小山市である。公務員(農林省)の父と、商家(かんぴょう問屋)の娘の母の間に生まれた。人格形成に重要な幼少期を、両方の祖父母の下で育てられた。母が入院中で父は北海道に単身赴任中であったためである。私の性格がゆがんでいるのは、このためであると考える。父方の祖父は、元軍人(近衛騎兵)であった。先祖代々900年弱ほど小山に居住している。この幼少期に祖父から、軍略(戦略)と武道を一通り叩き込まれた。そのため、戦略を練るのが好きであり、仕事も人生も戦略であると考えている。武道は戦略を理解するために必要なものとして学んだ。母方は商家であったため、比較的甘やかされて、どちらかというと母方の家にいる方が好きだった。かんぴょう問屋だったために、「相場」というものを教えられた。あの、巻きずしなどに使うかんぴょうは、1夜で相場の変動があり、何千万円、何億円の利益や損失につながる。経済とはそういうものなんだということを学ばせてもらった。そして、高校時代は、医学部志望であったが受験に失敗。当時の担任からは「君は無謀だね!」と言われたが、これが、大きな挫折の始まりである。そして、たまたま友人と受験した私大で土木工学を学んだ(というよりも通っただけ)。

 社会人人生の最初は、橋梁メーカー(巴コーポレーション)から始まった。私が社会に出た1980年代は、本州四国連絡橋の工事が真っ最中であったために、まさに、各橋梁メーカーは、たくさんの仕事を抱えていた。私が担当したものだけでも、南北備讃瀬戸大橋、与島高架橋、岩黒・櫃石島橋など技術者冥利に尽きるものであった。ここで、私の人生に大きく影響する上司や、他社の方々たちと出会った。この時の教えは「技術者が一人前になるには自ら厳しく学べ。そして、どうしてもわからなければ聞け」ということであった。それが今も社会人人生の基本となっている。また、上司から「社内の仕事だけで満足するな。外に出て人脈を作れ。」と言われ、それが今では、国交本省も恐れる(笑い)人脈となり最大の武器である。土木学会をはじめ、橋建協の委員会には、若年の時から参加している。先進的な橋梁の設計や製作を学ぶために、横河ブリッジにも出向し、「CADAMS」という鋼橋のCAD/CAMシステムの開発を行ったが、この時の仲間や横河の上司の方々とは、現在も付き合っていて、大切な仲間である。

 次にコンサルを経て、国の研究機関(財団法人国土開発技術研究センター)へと移った。国土センターでは主に技術基準を担当した。辛かったがここでの経験が自分の人生の中で、最大の意味を持っている。阪神大震災が発生し、上司から「兵庫県南部地震道路橋震災対策委員会」を担当しろ。」と言われ、唖然とした。「この俺がやって良いのか?」と思った次第であるが、翌日から地獄の日々が待っていた。3か月弱で「復旧仕様」を出し、1年後にH8道示を出すような、本省のお手伝いをした。しかし、これが建設省の方々との人脈と信頼関係を大きく作ったので、今考えれば非常にありがたかった。様々な新規施策や委員会の経験と人脈が財産となっている。

 さらに、韓国で「テグ~ブサン高速道路民資事業」(いわゆるPPP/PFI)事業のテクニカルアドバイザーを務めた。1年間の在ソウルとその後のモニタリング。橋梁は105橋、トンネルが13本あった。これがちょうど2,000年であり、韓国ではいまから20年前に、いまだわが国では実施されていないインフラのPFI事業に取り組んだわけである。いまだに我が国において実際にインフラのPFIを経験したものは、ほんの数人だけである。ここでは、実際の仕事よりも、韓国の役人との折衝やSPCの民間企業の人たちの調整に労力を費やしたが、帰国する際に送別会を韓国人たちが開いてくれて、「No1ジャパニーズ・カリスマ・サムライ・ボス」と言ってくれたのがうれしかった。

 その後、あることをきっかけに、「世捨て人生活」をした。「植野は何をやっているのか?」と捜索願が出ていたらしい。(笑い)海外逃亡説も流れていたようだ。この時に政経塾にも通いながら、政治の勉強と、飯を食うのを兼ねて非破壊検査会社で勉強させていただいた。社団法人も立ち上げた。外資コンサルの顧問をしながら、日本のコンサルの問題点も勉強した。しかしこの時が一番楽しかったかもしれない。

 さて話がそれていっているが、何が言いたいか?というと、技術者として生きる道は厳しく貪欲でなければならない。どうやって行くかは、自分自身で決めていかなければならない。「判断=決断」がプロジェクトにおいても「設計」においても、人生においても重要である。プロジェクトは、「やる」という強い意志がなければ、実行はできない。これから技術者として、育とうという方々は、つまらないプライドにとらわれることなく十分に考えて選択判断し、自分の思う人生をマネジメントしてほしい。自分次第ということである。しかし、実際に作るという経験は土木技術者にはぜひ必要な経験である。


4.まとめ

 最近、“ひと”の問題が重要だとますます考えているので今回はあえてくどくどと書いた。“ひと”を軽ずれば、失敗する。韓国での経験では、相手に如何に受け入れられるかというマネジメントも学んだ。
 3週間、昼も夜も試され、3週間後「ボス」と言われるようになると、仕事はスムーズだった。彼らの兵役の影響も大きく影響していると思われる。
 しかし、逆に非常に厄介なのも人である。プライドが高く、自分は何でも分かっているという方々も多くいる。非破壊検査会社では下請け的な仕事も経験しているが、元受けにあたる方々の横暴も経験している。自分自身で、「造る」ことから経験した。私の世代は、本州四国連絡橋の最後世代。手書きの最後の世代。と言われているが、逆に今それが必要である。永田町の「政経塾」にも3年ほど通い、政治家の方々の生態も学ばせていただいた。すべてが経験であり、経験もしていないのに、語ってはいけない。アンイシュタインの「何かを学ぶのに、自分で体験する以上に良い方法はない。」というのが、不器用な私にはピッタリである。

 残り2ヶ月半・・・・!! そろそろ、次の就活に入りますか?
(2020年1月16日掲載)

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