道路構造物ジャーナルNET

④診断・補修について

民間と行政、双方の間から見えるもの

富山市 
建設技術管理監 

植野 芳彦

公開日:2016.03.16

 民間と行政の双方を経験し、何が見えるか?書いてほしいとの話があった。執筆を引き受けたのは良いが全く書く内容に困った。しかし、これから大きく変化する、社会情勢の中で特に、何が今問題なのか?我々は何をするべきなのかを考える一助になればと思い書くことにする。技術的内容よりも、一般論に近いものとなる。書くに当たっては、批判も罵声も大いに結構である。さまざまな考えの方が居て当然であり、私の考えが間違っているかもしれない。大いに批判していただきたい。今回は「診断・補修」について、感じていることを書く。

近接目視だけで診断できるのか
 1件もないS判断

1.診断について
 橋梁の「点検」が終了すると、「補修」をするべきか? どうか判断するために診断は? と言うことになる。まず、診断は本来は管理者がするべきだと思う。しかし実際は、「診断込み」でコンサルさんに委託している場合が多いのではないだろうか?まず、この「診断」と言う言葉に、違和感を覚える。果たして、橋の診断と言うことが、近接目視をしただけで可能なのだろうか? 現実は、「評価・判断」だと考える。人間の体にすれば、問診だけで薬を出して様子を見ると言うことに当たる。 
 しかし、維持管理の現場では、良くわからない状態で、補修法を決め補修設計を行うわけである。「良くわからない状態で」と書いたのは、本当に劣化の原因やどう補修したらよいか、さらには、適切な補修材料や工法がわかっている人間が、判断しているのか?わかるのか?と言うことである。ここで、大いに疑問なのが、わが市でも年間何百橋という点検をしても、コンサルさん側から、いわゆる“S“評価というのが、1件も無いのである。詳細点検の提案も無いのである。ないと言うのは正確ではないかもしれない。報告書の中にコメントで、「詳細点検の必要がある。」とは書いてあるが、真剣な提案がない。あまりにも、簡単に書いてあるので必要性を感じない。なぜ、その先に踏み込もうとしないのか? これは、官側とコンサル側の双方に問題があるが、技術者としては、いささか、中途半端なのではないか。やはり、発注者と受注者間での真剣な議論の場が足りないのではないかと強く感じている。
 さらに、わからないものは、「わからない」と言えば良い。いろいろな原因を想定し、「点検」は事実を伝えてくれれば良い。事実から、現状を評価し、先を判断していくのが、その先の仕事である。点検結果から、その先を分析し、「ではどうしようか?」と言うのが重要なのである。点検結果も不十分、協議も不十分で、補修設計に行ってしまうのは、何をしているのかわからない。骨折しているのに、胃薬を飲んで直りますか? (構造物はそんな単純ではないが)その先に、詳細点検をすべきか? さらに突き詰めるかどうか? 判断が必要なはずだが、見ていると、ほとんど行われない。研究的、学術的な調査は別として、実務的に疑問を持ったらば、実施すべき物は実施する必要がある。その判断も重要である。補修を急ぐあまり、中途半端な補修で終われば、また劣化が進行する。状況によっては、数年間はモニタリング(広義の)を行い、放っておく判断も必要である。

必要なのは経験と感性と「愛橋心」

 判断するには、数多くの橋を見てきた経験と、感性が必要である。また、橋が好きなこと「愛橋心」が必要である。其の橋を自分で作っていてもなくても、橋好きは興味を持つものである。「仕事だから」「お金になるから」だけでは見抜けないものがある。さらに、できれば、橋を壊した経験も必要である。どのように橋は壊れるのか? わかっていて初めて判断ができる。時々現場に出て橋を見ていると、「あれ、この橋、なんか変だな?」と思う場合がある。そういう時は、橋歴板を見てみる。経過年数だけではなく、造った会社を確認するためである。同じような橋を同じ時期に作っていても、技術力の歴然とした差や、細部への配慮等の社風、企業の姿勢は、おのずと出てしまう。きちんとしている会社の物と、そうでないところのものは劣化の状況が違う。ここがインフラの怖いところである。一応、教科書どおりに設計し造ってあるのだろうが、教科書には現れない部分の配慮が良くない。経験の浅い方々は、同じであると思うかもしれないが、技術力の差、社風の差というものはそういうところである。経験は長くても、工夫の無い方、考えない方も同様である。地方に来て、改めて其れを実感している。先輩から昔よく言われたのが、「図面を見れば、何処の会社かわかる。」という。手書きで図面を書いていたころ、図面の構図や文字で、企業が推定できてしまうのである。

 簡単に「診断」と言う言葉を使っているが、責任の重さをもっと実感すべきである。まともな点検もできないのに、診断は無理なのだ。点検であれば、事実を伝えることが、大事なのであるが、現実は、それすら危うい。事実さえキチントしていれば、あとの判断は判断できる人間に任せればよい。たとえば、ASRが確認された場合。其れが、補修で十分な段階なのか、それとも無理なのか?と言う判断が重要であると思う。無駄な補修を繰り返していくよりも、“架け替えの決断”をすべき場合があると考えている。其れが、昨今の「長寿命化」という言葉に踊らされて、無駄な補修を繰り返す結果になりかねない。かつて、「永久橋」ということが盛んに言われた。永久橋、メンテナンスフリーという言葉を平気で使い、結果的に現状である。万物は常に劣化する宿命がある。

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