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-分かっていますか?何が問題なのか- 第54回 自碇式吊橋・清州橋と田中豊 ~新たな物事にチャレンジする意欲を実らせるには~

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎 氏

公開日:2020.06.01

3.田中豊と清洲橋

 それではここで、清洲橋の構造形式、設計、使用材料等の選択、決定に大きく関与した田中豊について別の角度から考えてみよう。
 田中豊は、1913年(大正2年)に東京帝国大学卒業と同時に内閣鉄道院に就職し、新たに編成された技術部に配属されている。7年後の1920年、内閣鉄道院が鉄道省に昇格した年には英国留学を命ぜられ、英国その後米国に渡り、2年間の海外生活をしている。ここで、田中豊が海外留学したのは何故か、特に、英国を選んだ理由を私なりの考えで紐解いてみた。小樽港の築港などで有名な廣井勇氏の影響が大であったと私は考える。
 廣井勇は、1883年(明治16年)12月に米国へ単身で、それも自費で渡航し、ミシシッピ川などの治水工事やハイ橋(ケンタッキー州)の橋梁設計などに携わり、著名な技術書、当時設計のバイブルともなった『Plate-Girder Construction』の執筆もしている。その後、1887年には、ドイツには渡りドイツで最古の工業大学、ドイツカールスルーエ府ポリテクニカム(Karlsruher Institut für Technologie)で1年間『構造力学』などを学び、日本人で初めてシュトゥットガルト大学においてBau Ingenieur(土木工師,工学士資格)の学位を授与されている。1899年(明治32年)には、東京帝国大学教授となり、日本の土木技術に大きな功績を残した堀見末子、青山士、太田圓三、増田淳、八田與一、久保田豊、宮本武之輔、石川栄耀などを教え子として輩出(廣井山脈として呼ばれ有名)しているが、田中豊も当然、教え子の一人である。現代も語られる橋梁の田中豊の指導教官は、海外事情にも精通し、技術を修得するとはどのようなことで、どのような意味があるかを十分に知っている廣井勇である。であるからこそ、教え子である田中豊にも、学ばなければならない科目は『構造力学』と『橋梁工学』であると示し、機会があれば、必ず海外で土木事業に携わり経験を積むように求めたのであろう。やはりここでも橋梁を考え携わるには、学ぶべき主要な科目が明らかとなった。『構造力学』は、橋梁専門技術者にとって必須科目、必ず修得しなければならないということだ。これは、私にとって非常に耳の痛い話である。次に、田中豊が清州橋の構造形式に自碇式吊橋を採用したことについて考えてみた。

3.1田中豊とヴァーノンR.コヴェルア  田中豊が英国に留学した時には、ケルンの自碇式吊橋・『Deutz Suspension Bridge』は完成が1915年であることから、既に供用開始して5年以上が経過している。ということは、田中豊はドイツに渡りケルンのライン川に架かる自碇式吊橋の理論を学び、美しい外観を見ることができた。田中豊が廣井勇の教えを受けていなければ、海外留学したとしても英国止まりであったかもしれない。田中豊は、廣井勇の望んでいた道を進み、廣井勇の敷いたレールを進み、自碇式吊橋『Deutz Suspension Bridge』に出会ったということになる。

 米国、ペンシルバニアの技術者ヴァーノンR.コヴェルアも同様で、田中豊と同じ時期にドイツに行き、新たな構造形式を取り入れる目的で『Deutz Suspension Bridge』を学びに行った可能性がある。ひょっとしたら、田中豊とヴァーノンR.コヴェルアは同じ橋の上で、自碇式吊橋の素晴らしさに感動し、互いに話しているかもしれない。そして、二人の行政技術者としての結論は、「『Deutz Suspension Bridge』は確かに素晴らしいが改良の余地がまだある」となる。それは、主構造が外側にあることから、歩行者空間が閉鎖的(図‐9参照)となるからである。水辺空間を楽しむ考え方を優先して考えれば、歩道部分は補剛桁の外側に出すのがベストであると結論に至ったのだ。  読者が誤解しないように、私がここで示した結論は私の妄想であることを断っておく。私の夢は膨らむが、機会があれば海外に公開されている関係資料を調べ、詳細が明らかとなったらまた話をしよう。次に、田中豊が東京帝国大学において教鞭をとった時の講義録を見てみよう。

3.2 教師としての田中豊  私が所有している田中豊の東京大学における講義録は、図‐10に示す表題が『橋梁・KYÔ-RYÔ』である。『橋梁・KYÔ-RYÔ』は、著名な東京大学名誉教授伊藤學先生が所有していることを他の人から聞き、私が直に伊藤先生にお会いし、無理を言って願い出た結果、伊藤先生自らコピーして頂いた、とても貴重な資料である。伊藤先生から受領した田中豊教授の講義録を見ると、図‐11に示す目次から始まり、最終は“End”で終わる370ページ(図‐12参照)の大講義録である。講義は、先に説明したピッツバーグのAndy Warhol Bridgeが完成するほぼ1年前、1925年(大正14年)5月4日から始まり、翌年1926年2月27日までの約1年間を通して行われている。田中豊が当該年度から東京帝国大学の兼任教授となったということは、大学教師として正に最初の年の講義録であることになる。今回話している清洲橋は、この年の3月工事着工している。

 私の手元にある講義録の中には、suspension bridge(吊橋)もあり、考え方、特徴などが示され、当然自碇式吊橋を特別な形式と扱い、self-anchored suspension bridgeと紹介している。田中豊が東京帝国大学の教授となり講義を始めて翌年の大正15年には、永代橋と相生橋が竣工しているが、講義の中には、当然タイドアーチやプレートガーダーも当然記述がある。田中豊は、アーチ構造について講義する時、「雄大なる環境に調和することは、区々たる局部的装飾の能くする処にあらず。橋梁其のものが全体として表現する気分によってのみ果吊橋の如きは、形態佳麗なるも、其の美は繊細にして幾分女性的の感あるが故に、本地点の如き雄大なる環境中にありては圧倒さる傾きあるべし」と永代橋設計計算書稿に記述されているようなことを含めて解説したであろう。田中豊の思い入れが深い、清州橋に採用したself-anchored suspension bridgeを講義した時は、自己の技術修得から現場、そして海外実情までを英語を主とした講義風景が垣間見え、受講する学生にとっては正に『目からうろこ』、さぞかし熱の入った講義であったであろうと、羨ましく推測する。

 話は事実とは異なるかもしれないが、経験豊かで高度な技術力のある田中豊であっても、人生初めて教壇に上って学生を前に講義をするのは、結構大変であったと私は推測する。田中豊は自分の母校とはいえ、初めて講義する前夜はしっかり眠れたのであろうか? 私がなぜここで、田中豊の講義前夜のことを言うのかについて説明しよう。田中豊とは大きくレベルは違うが私も、教師として初めて大学の教壇に立った前夜は、種々な思いが頭の中で錯綜し、全く眠れなかったからである。ここまで種々な話を交えて説明したドイツの『Deutz Suspension Bridge』をお手本にした清洲橋の完成は、大学で田中豊が教鞭をとり始めて3年後、ヴァーノンR.コヴェルのピッツバーグAndy Warhol Bridge完成と同年の1928年(昭和3年)3月である。私が話した、読者の多くから妄想だと言われそうなヴァーノンR.コヴェルと田中豊のケルンでの話、真実味があると思いませんか。

4.技術を学ぶこと、そして自分のものにするには

 今回も懲りずに話があちらこちらに振れるだけではなく、長文となってしまい、読者の方々には迷惑な話、一気に読み切るには忍耐が必要な量となってしまった。本当に申し訳ない。また、新型コロナウィルス感染を抑制する自粛行動が求められていることからか、外に出て種々な場面を見ることで得られるホットな情報ではなく、現場の話しから大分乖離した話となっていることをお詫びしなければならない。  ここで、今回の話を整理しよう。イタリア、トスカーナ州で道路橋が全崩壊した話しから、日本大学理工学部名誉教授・山崎淳先生の学生指導法、そして数多くの名橋を残し、優れた教え子を輩出した東京大学名誉教授、第33代土木学会長である田中豊先生に纏わる話を、隅田川に架かる国の重要文化財・清洲橋を柱に、私感を交えて述べた。今回最後に技術を学ぶには、そしてそれを自分のものにするにはどうするのかを書いて締めとしよう。

 先に述べた田中豊氏の恩師である廣井勇は、「自分の如き物は、決して天才という質ではない。他人が三日にて成就する事も自分には一か月もかかるのである。その点からしても只祈りと努力があるのみである」と言っている。私が講演の最後のスライドとしてよく使っている図‐13広中先生の『独創のコツ』を掲載して終わりとする。このスライドを最後にしているのは、歌舞伎ではないが、私の決め台詞だからである。第一フレーズの「コツコツ努力する・・・」の意味は、成果を期待してコツコツ努力するのではなく、視野を広めて種々なことを学ぶ努力をすることが必要であるとの趣旨である。また、第二のフレーズである「博打根性・・・」のくだりは、格言『清水の舞台から飛び降りる』の気持ち、その勇気と決断力を持って、勝負の時が来たならば躊躇なく打って出ろとの趣旨である。要は、その二つが無ければ決して『独創』は生まれないし、それが認められないとのことなのだ。広中先生のここで紹介した言葉は、私の座右の銘となっている。  最後に、新型コロナウィルスによる行動自粛はこれからも長く続くと思われるが、学生や社会人などを指導する人の熱意は、受ける側には痛いほど伝わったとしても、それを受ける側の事前準備と学ぶ姿勢、熱意が無ければ結局何も残らないのだ。読者の皆さん、私が意図する意味がお分かりかな。(2020年6月1日掲載、次回は9月1日に掲載予定です)

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