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維持管理の黎明期に創業して令和5年10月14日に創立50周年

ケミカル工事50周年記念 國川 正勝社長インタビュー

株式会社ケミカル工事
代表取締役社長

國川 正勝

公開日:2023.11.08

 ケミカル工事は今年10月14日に創立から50周年を迎えた。橋脚の補強や床版の補修補強、トンネルの補修補強などコンクリート構造物を中心とした道路や鉄道の社会インフラを守る会社として大きく認知されている同社が、創立からどのように歩んで今日の地位を占めるに至ったのか、國川正勝社長に話を聞いた。

神戸大学山岳部OBによって創立
 モービル車を買って仕事したい

 ――50周年おめでとうございます
 國川 ありがとうございます。50周年を迎えることが出来たのは発注者様や元請の会社様などの支援、弊社の社員の努力、そしてその家族の支えがあってのことです。現在の社長として、本当に感謝の言葉しかありません。今後も、国民の生命と財産を守るため社会インフラをきちんと保全する、そのための技術者を育成し、現場で実践していく会社としての使命を果たしていきたいと考えています。

 ――創立当時のことを教えてください
 國川 弊社は神戸大学山岳部のOBを中心に立ち上げられました。当時から先見の明があったのか、「コンクリートモービル車を買って仕事をしたくて」会社を作ったと聞いています。その時代は補修補強というものが認知されていませんでしたが、当時はコニシがボンド事業部を立ち上げたころで、住友セメント(現住友大阪セメント)や小野田セメント(現在は小野田ケミコの部隊)がジェットセメントを導入し始めた時です。これにモービル車を組み合わせてジェットコンクリートを確立したのが弊社です。


同社が導入した初期のモービル車

 最初に阪神高速道路公団(現・阪神高速道路株式会社)のジョイント前後の現場打ちコンクリートの補修で使われました。ジェットコンクリートが使われる前は、樹脂コンクリートが使われていましたが、当時の金額でm3=100万円という高額なものであり、ジェットコンクリートはそれをm3=10~15万円まで下げることが出来ました。それからジョイントの現場打ち部はジェットコンクリートによる施工に置き換わっていきました。


ジョイント部の間詰コンクリートの施工

 

 ――歴代の社長は、面白い方が多かったようですね
 國川 初代の河野社長は神戸大学山岳部の出身で、3年で社長を退任しました。それに代わったのが藤井社長です。同社長は同志社大学の出身ですが、山岳部つながりで入社しました。しかし登山への夢は断ちがたく、チョモランマに上るチャンスを選ぶため、昭和60年まで務めた社長を退任し、見事登頂の夢を叶えました(笑)。
 3代目は神戸大学出身の以西社長です。機械畑で2年間という短期間でしたが、弊社の技術の発展を図っていただけました。
 4代目の橋本社長は、兵庫県庁に勤められ、その後民間不動産会社を経て当社に入社し、1990年に社長に就任していただき、10年間務められました。経理畑であり、弊社の会社組織を大きく整備していただけたのは、彼によるところが大きいといえます。何せ、営業も技術もみんなお金を使うことはできても、締めることはできませんでしたから(笑)。それを厳しいまなざしで取捨選択していただきました。
 5代目は堀越社長です。段ボール製造などで有名なレンゴーの出身で、1997年に社長に就任し2011年まで務められました。阪神淡路大震災の復旧、その後の耐震補強技術が認められ、東京進出が本格し、全国への展開が緒に就いたのは、堀越社長の時代からです。
 6代目が私です。

大学卒業後、1年で東北新幹線の上野地下駅の工事に従事
 阪神淡路大震災で文字通り「24時間体制」で4か月ぶっ通しで働く

 ――國川社長の経歴を教えてください
 國川 福山大学の中山教授に師事し、建築構造のコンクリートを学びました。昭和58年に入社し、41歳で取締役技術営業本部長となり、2011年に51歳で代表取締役社長となりました。
 入社後は補修工事の現場で施工管理などを行いました。入社後1年もしない時に既に、東北新幹線の上野地下駅の地下構造物の逆打ち工事の下請の責任者を務めていました。今から考えると新人に任す工事じゃないですよね(笑)。そこで鍛えられ、その後も各種補修補強工事の現場代理人を務めました。

 ――社長就任前の最も心に残った出来事は何でしょうか
 國川 やはり阪神淡路大震災です。発災2年前に東燃(現在のメーカーは日鉄ケミカル&マテリアル)と松井繁之先生(当時・大阪大学教授)と炭素繊維シートを名古屋国道事務所が切り出した床版の下面に貼って、輪荷重走行試験を行い、炭素繊維の補強性能について自信を深めていました。しかし、当時はまだ炭素繊維シートの補強に関する認知度は高くなかった。阪神淡路大震災は炭素繊維補強材の歴史からすると、まさに画期といえる出来事でしたね。
 阪神淡路大震災では、当時40人いた弊社の社員・従業員が全て被災している状況にありながら24時間体制で会社を仮住まいにし、4か月ぶっ通しで働きました。私は会社で震災復旧本部長を拝命し、陣頭指揮を執りました。
 当初、橋脚の補強は、鋼板巻立てやRC巻立てでしたが、より補強をスピーディーに進めるため、炭素繊維シートによる試験施工を会社で供試体を作って各種の確認試験を行い、その後、阪神高速の深江付近で初採用され、全国に波及していきました。最近では橋脚の耐震補強やトンネル覆工補強にも多く採用されています。
 さらに同震災の復旧ではモービル車もフルに使われました。


トンネル覆工コンクリートの炭素繊維(左)およびアラミド繊維シート(右)による補強工

橋脚の炭素繊維シート補強施工状況

西宮~六甲アイランドでは液状化補修
 モービル車を使ってエアモルタルで空隙充填を行った

 ――どのような箇所でモービル車が使われたのですか
 國川 阪神高速道路湾岸線の西宮~六甲アイランド区間は、震災によってフーチング付近が液状化しました。その空洞部をエアモルタルで空隙充填しました。その時に活躍したのがモービル車でした。当時は8台所有していましたが、幸いにも震災による損傷を免れ、フル操業で復旧を支えました。
 この阪神淡路大震災での経験前は神戸の地場専業者の域を抜けていませんでしたが、大震災復旧の際の技術力と経験が買われ、ゼネコンから本格的な東京への進出を打診されました。実はその前にも2度、東京進出を図っていたのですが、世紀末の3回目の東京進出は成功し、今では大きな足場を築いています。

 
エアモルタルの施工状況例

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