道路構造物ジャーナルNET

-分かっていますか?何が問題なのか- ㊾高齢橋梁の性能と健全度推移について(その6) ‐将来に残すべき著名橋になすべきことは‐

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎

公開日:2019.05.01

1、『多摩御陵』への道

 今回話題となった生前退位を調べてみると、最初は、今から1374年前の645年(懐かしい響きのする西暦年だ。その理由は、私が中学生の頃、日本史上の大きな出来事、『大化の改新』の年を覚えるために、ムシゴロシと例えて覚えたからなのだが)に皇極天皇が弟の軽皇子に譲ったのが最初らしい。今回の明仁天皇が生前退位される前は、今から2002年前の1817年(文化14年)光格天皇が生前退位したのが最後とのことである。現行の皇室典範では、天皇の譲位を認めていないことから、今回のような生前退位は近年無かったとのことだ。私の生まれた『昭和』から、技術者として育った『平成』に替わったのは、第124代の昭和天皇であった裕仁天皇が昭和64年1月7日午前6時33分に崩御され、平成元年(1989年)1月8日日曜日であった。

 私が記憶しているのは、昭和62年9月に昭和天皇が開腹手術を受けられた頃から種々な噂が流れ、翌年の昭和63年9月19日の夜、昭和天皇の体調が急変、重体説が流れ、自らが関係する仕事の多くに変化が生じてきた。伝えたい第一は、昭和天皇が1月7日に崩御された時に行われる葬儀、『大喪の礼』がある。『大喪の礼』は、2月24日金曜日に一万人弱の国内外の参列者が集まる中、冷たい雨が降りしきる新宿御苑で行われ、一連の儀式が終了後に直ぐ、一般道から首都高速道、一般道を使い、八王子市高尾駅の近くにある、『多摩御陵』に埋葬された。この『多摩御陵(現在の武蔵野陵)』が今回の話しに関係がある。第二は、皇居前に大量の報道用テントが設置され、4カ月の長き間報道陣や食事を運ぶ車両等でごった返したことである。不謹慎だと怒られるかもしれないが、私の知人がこのテント村に運ぶ3食の弁当で莫大な利益を得て、会社が倍以上大きくなったと伝え聞いている。日本国民の象徴、天皇陛下が崩御されることは、種々な人びとにとって大変なことであった。

 大きな公的行事は経験もあるし、それに合わせるように道路や橋梁等の整備を何度も行ってきているので、社会基盤整備について全くの素人ではない。しかし、昭和天皇が崩御された時は、他の行事とは全く異なっていた。国内外の多くの要人が東京に集まることから、警備体制は予想をはるかに超え、戒厳令が敷かれたような状態であった。私が今でも、当時の警備状況として脳裏から離れないのは、『多摩御陵』のある高尾に繋がる鉄道、JR中央線の車両が確認できる沿線のビル屋上の殆どに、警察関係者が陣取る異様な風景に、恐怖感を感じたことである。さてここで、道路橋に関係する話をしよう。先に話をした『多摩御陵』に関係する道路橋の話だ。

『多摩御陵』は、国道20号線(甲州街道)の高尾駅の手前、御陵前バス停付近から入り、南浅川を跨いだその奥にある。南浅川を跨ぐ道路橋が、第一番目の話題提供となる『南浅川橋』である。『南浅川橋』の位置図を図‐3に、側面からの外観を写真‐3に示した。平成天皇が退位される1週間前の4月23日に、自らの退位を昭和天皇の報告されるために訪れた際、それを放映したテレビ画面には、多くの市民と共にこれから話す『南浅川橋』が映っていた。現在の『南浅川橋』は、写真‐4で分かるように石張りの鉄筋コンクリートアーチ橋で2代目である。それ以前の『南浅川橋』、大正天皇が多摩御陵に埋葬された後に建設された当時は、何の変哲もない木橋であった。木橋時代の外観を写真‐5と写真‐6に示した。木橋時代の『南浅川橋』は、洋式木橋のような造りであるが、何処にでもあるような木橋である。




 木橋を現在の荘厳な鉄筋コンクリート橋に架け替えたのは、昭和11年(1936年)12月である。『南浅川橋』施工中の状況を写真‐7から写真‐10に施工段階を追って示した。




 写真‐11は、工事完了後一カ月経た翌年の1月の南浅川から見た、完成状況である。鉄筋コンクリートアーチ橋の建設状況についてステップを踏んで見てみると、現在と使用機械は異なるが、基本的な施工方法は変わりなく、写真を整理しながら、施工技術の画期的な進歩はないものかと思った。私が何故ここで工事写真を掲載した理由が分かるかな? 読者の皆さん。

 ここで、私が資料を調べていて驚いたのは、何と施工会社が現在のスーパーゼネコン・清水建設株式会社であることを見つけたことだ。『南浅川橋』架け替え工事請負当時は、合資会社清水組であった。合資会社清水組の屋号は、創業者清水喜助の喜(写真‐12参照)をとったものと聞いている。合資会社清水組は、1887年(明治20年)に今話題の新たな一万円札に使われる『渋沢栄一』が相談役となり、経営指導を行っている。現在でもスーパーゼネコン・清水建設株式会社(伝統的な建築儀式である『手斧始め』を、新年に恒例儀式として行っていることでも有名)は、1月号で私が話題として触れた東京・早稲田の穴八幡宮社殿、四国の金比羅宮授与所や島根県の出雲大社本殿などの伝統的な社寺建築、リニューアル工事などの豊富な実績を積み重ねている。

 『多摩御陵』の玄関に位置する、荘厳な『南浅川橋』に手を出す社風が何となく分かるような気がする。ここで取り上げた『南浅川橋』は、昭和末に設置した『東京都著名橋選定委員会』において、著名橋として選定され、著名橋整備事業を始めようとした前年に昭和天皇が崩御された。天皇崩御に関連する行事で、皇室を始め多くの人々や報道陣が『多摩御陵』入り口にある『南浅川橋』橋上を通行する際、問題は無いのかとの指摘が幹部からあった。『南浅川橋』は、図‐4で示すように地盤の良い支持層の上に木杭を打って下部工を築造し、大型車両も数多く通る橋梁ではない。私は、当該橋梁に大きな変状が起こるはずがない、問題は起こらないと考えたが、一抹の不安を感じ、現地確認することになった。現地調査段階で、鉄筋コンクリート造りで荘厳な『南浅川橋』も52年経過すると多少の傷みもあった。傷みとは、写真‐13で分かるように高欄に多少ではあるが段差が生じていた。しかし、既に『大喪の礼』も2週間後に行われる事でもあり、『多摩御陵』の付近で補修工事を急遽行うことは如何なものかとの議論となった。結論としては、多少の段差はあるが安全性が問われることはないと判断、手を付けずにおこうと決まった。
 これで一件落着と胸を撫で下ろし、私を含め関係者が帰りの車に乗り込もうと『南浅川橋』を振り返った時、大変なことに気がついた。日も暮れかかり、橋燈に電気が灯った時である。橋詰めの親柱上の橋燈(写真‐14参照)が一か所点灯していないことに気がついた。その場に居合わせた職員と顔を見合わせ、「良かった! 見に来た甲斐があった」とあいなった。翌日には、切れた電球を含め8箇所の電球を交換し、事なきを得た。その後、昭和天皇が埋葬された後に、『多摩御陵』も『武蔵野御陵』となった。懸案事項となっていた南浅川橋著名橋整備事業も、社会が落ち着いた1993年(平成5年)に橋体の劣化防止処理、石積みの一部改修、橋面舗装等を行い現在に至っている。

 話は変わるが、『南浅川橋』の上流には、高尾街道の綾南大橋と旧高尾街道の敷島橋がある。私が先の『南浅川橋』とともに記憶に残るのは、高尾街道(平成になってから現在のルートに付け替えた)の綾南大橋なのだ。綾南大橋は、『武蔵野陵』の一部を用地買収し、平成になってから5年後の1993年5月に完成した、高架構造形式の道路橋である。綾南大橋を含む高尾街道の整備には、この場では言えないが地元の賛同を得るのに多くの時間を要し、組織内においても一大事業であった。その綾南大橋は、下流に架かる『南浅川橋』を意識したアーチ形状に似せた外観(写真-15参照)となっている。行政技術者とは、専門技術だけではなく、地元、議員、設計会社、施工会社など種々な機関と調整をとるのも重要な仕事なのだ。しかし、最終決定をするのも行政技術者であることを忘れてはならない。河川を跨ぐ径間の構造形式は、今を先取りした鋼曲線細幅箱桁である。年号が替わることに関連して『大喪の礼』、『武蔵野陵』の入り口に位置する『南浅川橋』と話を進めたが、ここらで導入編を終わりにし、連載の趣旨である分析結果について説明する こととしよう。
次ページ 2.構造の違いが健全度に影響するのか(その2)

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