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-分かっていますか?何が問題なのか- 第56回 葛西橋にみるチャレンジ精神と鈴木俊男 ‐何かが大きく足らない日本のエンジニア‐

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎 氏

公開日:2020.12.01

1.はじめに

 私は本連載で度々COVID-19の感染拡大について予測しているが、私の情報収集網が狭いのか、予測能力レベルが低いのか、悪い方向に外れっぱなしである。本連載を読まれている方々に申しわけないと同時に、私自身、面目ないとの思いでいっぱいである。実際、国内外のCOVID-19感染状況は私の想定を大きく超え、終息の道は全く見えない。それどころか、冬の到来とともに第二次、第三次感染拡大の波が世界各地を襲い、このまま推移すると、暗い年末年始と成るのは確実である。国内は急速な拡大に右往左往しながらも最悪の事態とはなっていないように思えるが、ヨーロッパでは重傷者の急速な増加によって、主要都市の多くが再度のロックダウン生活を余儀なくされ、経済的打撃は計り知れない。報道資料を見ると、悪玉COVID-19ウイルスの治療薬は、ウイルスの増殖を抑える新規抗ウイルス薬の開発がカギを握っているようである。人類が待ち望む新規抗ウイルス薬の開発は、英国・グラクソ・スミスクラインなど多くの企業で取り組み、47種類が臨床試験段階に進んでいる。中でも米ファイザーと独ビオンテックが共同開発している「BNT162b2」が米国等では、いち早く政府の承認を受けたが、国内での実用化は何時になるかである。

 しかし、私が考えるに、期待する「BNT162b2」の効果や副作用は未公開部分が多く、実用化には多くの課題解決が必要と考える。それよりも、冬になって気温が下がり、感染者がウイルスを拡散させる可能性が高い現状を考えると、我々は今一度気を引き締め、マスク、手洗い、三密を避けるなど感染予防対策の徹底が必要不可欠である。国内外の最悪の道を進む現状を見て情けないのは、人類は過去の経験を活かすことが出来ない、野生の動物にも劣る哺乳類であることだ。その理由は、世界中がパンデミックとなった、100年前に猛威を振るった『スペイン風邪』の教訓はほとんど活かされず、自己責任であるはずなのに他人に責任を転嫁し、騒ぎ立てるだけの報道を観て、私はニュース番組もほとんど見なくなっている。さて面白くもないCOVID-19ウイルス関連の前置きはここらで止めて、連載の本題、社会基盤施設とエンジニアの話に進めよう。

2.西海橋の重要文化財指定について

 話題提供の第一に、私にとってとても喜ばしく、そして読者の方々にも是非喜びを分かち合いたい橋に関連した話しをしよう。その話は、以前にも登場した長崎県・西海橋関連の話しである。本連載で紹介した偉人・吉田巖さんが設計した西海橋が、この秋、栄えある国の重要文化財に指定された。天国で世の中の動きを見ている吉田巖さんは、何と言うであろう。素直に考えれば、社会人となって初仕事、大学での研究成果が実務に生かされた西海橋が、これからは国の重要文化財として扱われ、貴重な遺産となることから喜びも一入であろうと考える。違った見方もできる。吉田巖さんが生きていれば、「西海橋を重要文化財指定、当然だ、文化庁は行動が遅すぎる」と強面の顔で言い放つ可能性もある。さてここで、吉田巌さんの顔を浮かべて、西海橋の重要文化財指定の理由を確認しよう。図‐1は、西海橋重要文化財指定に最も貢献している岡林隆敏長崎大学名誉教授の撮影した『西海橋』である。西海橋は、何度見ても感動する、周囲の景観にマッチした美しい構造美である。

 文化庁の公開された重要文化財指定資料を見ると以下のように記述されている。西海橋重要文化財指定理由:『西海橋は,大村湾と佐世保湾を結ぶ,伊ノ浦瀬戸(針尾瀬戸)にかかる道路橋で,建設省の設計により,昭和30年に竣工した。中央の鋼製アーチは,建設当時我が国最大の支間(スパン)216mで,戦後の物資不足の中,力学的合理性に基づく繊細な部材構成を実現している。設計,製作,施工のすべての面で卓越した技術が駆使された,我が国初の海峡横断橋で,その後世界最大級の規模を実現する戦後長大橋の出発点といえる。なお本件は,紅葉谷川庭園砂防施設とならび,戦後土木施設として初めての重要文化財指定である。』 西海橋を重要文化財に指定した基準は、①技術的に優秀なもの,➁歴史的価値の高いものである。選定理由のなかで私が着目したポイントは、アンダーラインを引いた箇所である。まず、第一に建設省の設計との記述があるが、この表現は伊ノ浦橋(建設当時の名称・現西海橋)を全額国庫負担による国の直轄事業、建設省の技術者が直接設計し、設計コンサルタントが関与していないことを表している。
 確かにその通りだ。しかし私の願いは、重要文化財指定表記に吉田巖さんの名前を明記して欲しかったことである。その意見を通すとなると、組織を重んずるお堅い国土交通省が反論し、明記に難色を示すであろう。読者の多くの方がお分かりのように、日本の場合、橋梁設計者が分かるのは昭和初期までで、その後、橋梁の設計・施工は、官側の直営からコンサルタント、ファブリケータ―、ゼネコンに委託発注するようになったことから、設計者が表に出ることは皆無となった。橋梁設計の議論で良く話題に上る話ではあるが、設計者の氏名を公表するべきとの意見がある。私の考えは、設計者のモチベーションを上げるためにも公表すべきが第一であるが、反面、もし設計者名を明記するとなると、設計・施工の環境が適切に整っているか、組織が個人名公表に耐えられるかである。

 次に、第二の製作、施工の面では、製作・架設を請け負った株式会社横河橋梁製作所(現・株式会社横河ブリッジホールディングス)の会社名が記述されている。
 関連資料を見ると、『本橋は中央支間216m、全長316.2mに及ぶ長大な上路式構助固定アーチであり、その架設工法も考慮して構造物全部を立体的に仮組立してサブドリルした現場リベット穴をリームして材料の交差と製作の誤差とを修正する工作法は採用できない。しかもリベット穴の完全な合致と同時に、アーチ部材の突合せ面間の接触を完全にすることが要求されるものであって、この条件を満たすためには仮組立を後リームするのでは十分でない。以上の諸点を満足させるために製作上の誤差(例えば、穴径誤差:+0.5mm、-0.2mm)を極小に保つほか、鋼材の厚さや形鋼の断面寸度等の各使用材料について細かく測定してこれを適当に案配することによって鋼材の交差からくる影響を避けるように考慮し、現場リベット穴は焼入れプッシュ付の鋼製型板を用いて仕上がり大に穴明けして、設計上の同一部材は互換性を持たして製作する工法を採用したものである。』(図‐2参照)との記述があり、原寸から製作、組立までの工程において多くの工夫を凝らした点が示されている。施工についても見てみよう。『西海橋・固定アーチの架設は、支間中央において2分割した2つの両アーチを、それぞれの橋台側から数パネルを片持式に張り出しつつ、途中3か所でケーブルによって支持しながら進め、支間中央に至って閉合する、いわゆる斜吊り工法で行っている。この工法は架設段階において、アーチ主構の位置とケーブルの張力とを架設前に計算で求めた量に一致させるため、施工時にケーブルの精密操作が要求されるが、架設の工事費、施工時の安全性、組み立て時の精度を確保する点から見て、最良のものと判断された。』(図‐3参照)とのことである。『西海橋で採用した架設工法が固定アーチに使用された例は極めて少なく、海外の著名な事例として米国、Niagara渓谷の橋Rainbowの架設に利用されたが、これは鈑桁型式であり、トラス型式としては最初のものである。』(図-4参照)との記録が残っている。吉田巖さんの大学での研究を基に、米国に渡航してまで架設技術を学ぶ架設会社の姿勢、そして世界に先駆けて、国内初の架設技術に取り組む技術陣のモチベーションはどこから来るのであろう。私は、経営者の理念を活かす社風、高度な技術に取り組むことが当然であると技術陣の基本的姿勢がそこにあると考える。これ以降の私の意見は、横河橋梁製作所創立時の資料を読んで感動したことから紹介するのであって、横河橋梁製作所に利害関係も無いし、忖度している訳でも無いので、読者は無の境地で私の真意を読み取ってほしい。

 西海橋の製作・架設を請け負った株式会社横河橋梁製作所(現在の横河ブリッジホールディングス)は、江戸、明治、大正、昭和に渡って活躍した建築家、企業家として有名な横河民輔が1907年(明治40年)に設立した、国内初の鋼橋梁及び鉄骨の専門会社である。西海橋の製作・架設工事を国内初の専門会社だから受注できたのではない。株式会社横河橋梁製作所が西海橋の製作・架設を担えたのは、横河民輔の理念、『誠実であれ、よいものをつくれ』を、株式会社横河橋梁製作所を支えた技術者が守り、『ものつくりに妥協しない姿勢』を会社が一丸となって貫いたからであろう。

 西海橋に通じる鉄骨に関する横河民輔の偉業を調べてみると、1902年(明治35年)に完成した三井総本店、「鉄骨式カーテンウォール式煉瓦造り」(図-5参照)を自らの設計で完成させたほか、明治44年竣工の帝国劇場、大正3年竣工の三越呉服店本店、昭和6年竣工の東京株式取引所本館など、戦前の都市文化を象徴する建築物に類まれなる技術者魂の片鱗が見られる。今の私は心の中で叫んでいる。「横河民輔の理念、技術者として取り組む姿勢を、横河ブリッジホールディングスの技術陣、営業の方々は肝に命じ、どんな時にも忘れないでほしい。そして、過去の栄光を汚さず、橋梁製作・架設、メンテナンスにおけるリーダーとしての自覚を持って行動してほしい」と。私としてそれ以上に、他の国内橋梁ファブリケータ―(鋼、コンクリートなど使用材料には関係なく)に所属する技術者には、私の示した『横河民輔の理念』を噛みしめてほしい。機会があれば私は、産官学の技術者に「眼を覚ませ!!」と言いたい。この言葉の持つ意味は、最終章でより明確になる。これから後を読まずに最終章に飛ばすことなく、順を追って読むことをお勧めする。
 そして私は、『横河民輔の理念』を念頭に、皆のポジティブで公正な行動が多くの実のあるイノベーションとなることを期待している。

 西海橋建設の難工事に取り組む官民協働体制もすばらしい。固定式ブレスドアーチ橋のケーブル斜吊架設の張出し架設段階毎の応力計算は官側(村上永一さん、吉田巌さん他)で行い、架設段階毎にケーブル取付け、張力の測定調整は民側(横河橋梁製作所)で行う、官民一体型で取り組み、今でも感動する難工事を見事に完了させている。さらに架橋地点の調査、支承支間測量は東京大学(私の知る、温厚な伊藤名誉教授が名を連ねる)が担当し、重要な支間長(216m)を精度高く決定し、その結果基本設計が確立したとの資料を見ると、産官学の蒼々たる技術者が取り組んだからこそ、現在の西海橋が存在することが分かる。さらに、著名な橋梁技術者、多くの読者が知るあの田中豊や青木楠男(鋼橋の溶接技術で有名な早稲田大学名誉教授)が総括指導にあたっているから驚きである。技術力が高く、経験豊富な専門技術者が、中堅から若手までを一貫として指導する姿は、西海橋の現場にもあったのだ。ここまで、西海橋が重要文化財として選定された詳細を説明したが、そこに至るまでの別の話しをしよう。

 実は今年の春、私は、毎年恒例である文化庁の文化財審議会(令和2年7月17日答申)の報道資料を見ていた。そこには西海橋の名前が無かった。私は、何度も公表資料を見直すと同時に、私の西海橋重要文化財指定への願いも、文化審議会委員の方々には届かなかったのかと力を落としていた。それと同時に、長崎県において多くの文化財保存や指定活動に情熱を注いでいる岡林隆敏長崎大学名誉教授の顔(写真-1参照)が浮かんだ。そして、「自らの努力が報われなかった!」と落胆する岡林先生の姿が目に浮かび、遣る瀬無い気持ちで一杯になっていた。夏には何度か受話器を取ったが、何を岡林先生に話せばいいのか迷い、結局電話できなかった。春から夏にかけて、落胆している岡林先生ではなく、私の知人である長崎大学の中村教授に電話して状況を聞かなければとの思いも、COVID-19ウイルス感染報道や米国の混乱する大統領選挙報道が溢れる中、徐々に薄れていった。

 ところが秋も深まった10月中旬、突然長崎県の西海市教育委員会から私宛に電話があり、文化庁から西海橋が重要文化財指定の答申について連絡があったことを知った。(図-6参照:西海市教育委員会から私宛に送付されたパンフレット)秋の文化審議会文化財分科会の審議・議決を経て、晴れて令和2年10月16日に文部科学大臣に答申されたとのことである。良かった、「岡林先生おめでとう!文化庁の北河さん、ありがとう」の思いが私の頭の中でいっぱいになった。西海橋答申を知った私は、当然、文化庁の北河大次郎さん(東京虎ノ門から京都に移る準備作業中)に電話したのは言うまでもない。私がなぜ春の文化財審議会の報道を待っていたかというと、岡林先生のこれまでの熱意と努力、そして重要文化財指定に向けた多方面にわたる活動を目にし、耳にしてきたからである。何故、私が重要文化財指定に拘っているのかと言うと、それは、清洲橋、永代橋、勝鬨橋の重要文化財指定時に、私が体験した茨の道があったからである。あの時、平成19年(2007年)の春、6月18日の月曜日、天気が曇りから晴れに移った時、先の北河さんから電話が私宛にあり、晴れて重要文化財の答申(図-7参照)が決まったことを知った。私の重要文化財指定に向けた3年間の苦労と、私に対する周囲の非難(三橋同時指定は絶対無理、特に勝鬨橋は昭和15年竣工であることから近代遺産では無いとの声など)によって下を向かざるを得なかった当時の暗さが、その一本の電話で一気に解消することになった。栄えある重要文化財指定番号は、清洲橋がNO 02500、永代橋がNO 02501、そして勝鬨橋がNO 02502である。指定番号NO2500、何ときりのよい、素晴らしい番号ではないかと満面の笑みを浮かべ、「やった!私の努力が実った」と、心の中で万歳三唱した当時が思い浮かぶ。言い過ぎかもしれないが、私があの時あのポジションにいなければ、そして外から何を言われようと自分の考えを貫き通さなければ、隅田川に架かる三橋同時の重要文化財指定は無かったのである。私は、隅田川三橋の答申、指定通知(図-7参照)が春であったから、西海橋も当然春にあるものと思い込んでいたのである。

 ちなみに、東京・日本橋は、平成11年5月13日でNO02362(1999年)5月13日(平成11.05.13) 02362(米元晋一が設計、妻木頼黄が装飾を担当)、新潟・萬代橋は、平成16年(2004年)7月6日NO 02447(田中豊の指導の下、福田武雄が設計)である。

 先に話した長崎大学名誉教授である岡林隆敏先生は、長崎大学で教鞭を取られていたが、専門は構造工学・地震工学 及び維持管理工学で、2003年から2011年の短期間に研究成果として、187件もの論文が出されている。岡林先生繋がりで、先生に現地まで同行して頂いた、国の重要文化財である長崎・針尾の電波塔の話をしようと思うが、長くなるのでこれは次回に譲る。読者の多くが知らない話を含め、針尾の電波塔で採用された技術面での素晴らしさや、現地で岡林先生からお聞きした貴重な話も含めて話題を提供するので楽しみに待っていてほしい。
 さて、西海橋重要文化財指定の重要なキーパーソンである岡林先生の話しであるが、答申を知った当日から、先生のご自宅に何度か電話を差し上げたが、どなたも電話に出られなかった。なぜ電話をしたのかというと、岡林先生にお祝いの言葉を是非言わなければならない、と思ったからである。しかし「可笑しいな、先生もしくは奥様が何時も電話に出られるのに」と思い、胸騒ぎがしたので長崎大学・中村教授に連絡したところ、なんと岡林先生は病に伏され、長崎大学病院に入院されているとのことであった。私の勝手な想像ではあるが、岡林先生も春の文化財審議会での答申が無かったことから、落胆され、病に伏されたのでは?とも思った。いずれにしても、岡林先生が一日も早く全快されることをお祈りするばかりである。岡林先生が全快されたら、私は必ず機会を作って直接お会いし、西海橋の重要文化財指定の祝宴を開きたいと思っている。

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