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インタビュー詳細

画期となる技術追求しミッシングリンク解消を 

阪神高速・幸社長インタビュー 自分で橋を造って走りたい

阪神高速道路株式会社
代表取締役社長
幸 和範 氏

 阪神高速道路の社長に幸和範氏が就任した。民営化後のみならず公団設立以来初の生え抜き社長。技術畑出身であり、 麾下のエンジニアの信頼も厚く、多くの実績、内に秘めた情熱と温厚な人柄から、なるべくしてなったという感が強い。その幸社長に自社への思いと、社長就任に当たっての抱負などを聞いた。(井手迫瑞樹)


首都高・宮田社長とは京大の先輩・後輩

 山田善一研究室に所属

 ――首都高速道路の宮田社長が、幸社長の就任に関して「幸先輩の就任は阪神高速にとっても喜ばしいし、個人的にも非常に嬉しい」と話されていました

 幸社長 宮田さんは京都大学の3年後輩で、同じ研究室(山田善一教授:橋梁耐震工学)で学んでいました。私が阪神高速道路に入って2年後に、宮田さんが国家公務員試験に合格した、ということを偶々研究室に行った際に本人から聞いて、「頑張れよ!」とエールを送ったことを覚えています。その後は逆に気合いを入れていただく機会が多かったですが(笑)。


親父は国鉄の技術者

 山田善一教授の耐震研究室に所属

 ――大学時代はどのように過ごされていたのですか

 幸 大学時代は学園紛争という言葉に象徴される時代でした。京都大学に入学したのは昭和41年でしたが、そのころはベトナム反戦運動が盛んで、立て看板が林立し、アジ演説も至る所で行われていました。昭和43年頃には、運動はピークを迎えており、フランスのカルチェラタン(即ち1968年パリ五月革命を指す)を再現しよう! とキャンパスは勉強以外のことで気勢盛んでした。

 そんな状況でしたから、先生方の大半は避難していてキャンパスにおられず、一時期授業はほとんどありませんでした。私も羽仁五郎さんの演説などを聞きに行ったことを覚えています。ただし、授業も細々と行われており、優秀な学生が後輩に授業をしており、私も偶に参画していました。年が明けて、4回生になると授業と言うより、研究室生活が主な活動の場になっていました。4回生からどの研究室に所属して学ぶかを決めるわけです。4回生の時は小西一郎教授の研究室に所属しました。

 これは、親父がものを作ることが好きな国鉄の技能屋(主に電気、機械)だったことも影響していると思います。人が作るものは誰でも作れるはずだ!というのが彼の信条で、ラジオやテレビも自作していました。山に行ったら鳥を捕獲し、それに餌付けをして、家には2,30羽の鳥が居ました。そういう仕草を見ていましたから、物造りに進みたいと幼いころから考えていました。また、橋と言うのはかっこいい。形がかっこいいということもありますが、解析を一つの数式でもってできる、その精緻さにあこがれて橋梁研究室に入りました。

 しかし、大学院では山田善一教授の研究室に所属を変えました。当時は学部の研究室と大学院の研究室を途中で変わるのは掟破りでしたが、両先生とも懐の深い方で選択を受け入れてくれました。ある意味、橋梁の精緻な解析を追究する研究とは対極の豪快な人柄でした。山田先生が研究されていた耐震分野は当時、まだ研究途上の学問だったと思いますが、逆にそれに憧れました。我ながら何でも憧れますね(笑)。大学院では2年間みっちりと研究しました。


自分で造り、自分で走りたい 阪神高速に入社 

 最も困難な所に飛び込んでいく

 ――そして阪神高速道路公団に入社したわけですが、選んだ理由は

 幸 神戸生まれで、京都大学に入るまでの18年間、神戸で過ごしました(左写真は神戸の高校時代)。阪神間に国道43号が走っていますが、国道43号は当時、二国(にこく)と呼ばれていました。国道2号の次の国道(第二阪神国道)という意味ですね。

 二国の建設工事は、私が小学生の時に始まったのですが、往復10車線の道路がどんどん出来上がっていくのを見て、「どえらいことをやっているなぁ」と感じました。自分の住んでいた街が都市計画で変わっていく。当時は太平洋戦争から10年位しか経っていませんから、戦争で家が焼けて溶けたガラスの欠片が、まだあちらこちらにあったような時期でした。そこに新しい街や道路ができていく。そういった環境の中で自分も、都市高速道路という新しい橋で構成される道路を関西の地で設計し、建設に携わり、出来上がった道路を自分で走りたいと思ったわけです。

 ――阪神高速道路公団入社後、印象的だったことは

 幸 昭和47年に入社しましたが、入社してすぐに道路公害反対運動によって阪神高速道路の事業が止まりました。当時年間予算が360億円ほどでしたが、1日1億円の予算がほとんど執行できず、当時の建設省から大目玉を食らったということを聞いたことがあります。住民の皆様の懸念は「新しい道路ができると車が集中して排気ガスを撒き散らし、沿道に振動・騒音被害を与える。だから絶対反対」というものです。それに対し先輩達は、日本で初めて透明遮音壁(プラスチック板)を取り入れたり、沿道から10~20㍍の幅で緩衝緑地帯を設けたりしました。沿道の方々と「呼吸」をしながら、立地できる環境を作っていったわけです。道づくりというのは非常に幅広いものだなと思ったことを憶えています。

 ――ご自分の経験で印象に残った現場は

  関西国際空港に向かう湾岸線の建設で、初めて管理職として工事事務所の副所長に就きました。現場は関空へのアクセス道路ですので、開港に間に合うように建設できなければ、阪神高速道路公団の存在価値はないと自ら思い、周りにもそういうことを言いながら職務に当たっていました。最も困難そうな事柄に率先して飛び込んで行こうと常に心がけていました。湾岸線は海の中に建設物を作る個所もあるのですが、工事を実施するには水面利用利害関係者の同意があって初めて、海上保安庁から工事許可が得られるわけです。


岸和田大橋の建設


 ――漁協などの許可を得なくてはいけない

 幸 これが中々難しいのですが、そういうところに飛び込んでいきました。そこで分かったのは、やはり最後は人間対人間の話し合いであり、近い距離で顔を合わせて、心が通い合う状況で話をすれば分かりあえる、通じるのだということです。