道路構造物ジャーナルNET

新たに発刊した「道路橋防食便覧」のポイント

③溶融亜鉛めっきによる防食

公益財団法人 東京都道路整備保全公社
一般財団法人 首都高速道路技術センター

髙木 千太郎

公開日:2014.12.01

 「錆」ではなく「さび」にしている理由

 ・はじめに
 溶融亜鉛めっきによる防食について解説する前に、鋼道路橋に発生する「さび」について基本的なことを含めて整理してみる。金属材料が環境物質と化学反応や電気化学反応によって損耗する現象が「腐食」である。ここで示した腐食現象が金属に起こり、その結果、固形状の水和酸化物ができる鉄系の腐食である「錆」とステンレス鋼やチタン合金などが金属結晶の粒界に沿って溶解したり、応力腐食割れなどを起こす現象の2種類に分けることができる。今回とりまとめた「鋼道路橋防食便覧」における腐食生成物を鉄系の腐食現象を表した「錆」とせずに、「さび」に語句統一している理由はここにある。それでは本題の溶融亜鉛めっきに移る前に鋼材表面を処理する「めっき」の考え方について解説する。鉄系の材料に生じる「錆」は、放置すると層状の荒れた形状となるが、亜鉛や銅などは、「さび」が発生しても良好な環境下であれば、一様で進行性の遅い緻密な「さび」が生成される特徴がある。鋼材の表面に赤錆が生成されるのは、水和酸化物コロイド粒子が二次的に凝縮した被膜であるが、進行性が早いことから先に示した進行性が遅く、酸素に対するバリヤー性のある塩基性被膜を生成する亜鉛を鉄素材の表面に使うことが「亜鉛めっき」の基本的な考えである。便覧で示した溶融亜鉛めっきの歴史は、1742年(寛保2年)にフランスの科学者P.J.Malouinが発明し、1836年(天保7年)にフランス人のSorelが特許を取得、溶融亜鉛めっき法を確立した。その後イギリス、ドイツ、オーストリアとヨーロッパ各地に溶融亜鉛めっき工場が建設され、溶融亜鉛めっきによる防食法が広く採用されていった。国内では、1872年(明治5年)にイギリス人技師の指導で汐留において通信用の鉄線に亜鉛めっきを使用したのが最初である。その後、1876年(明治9年)に初めて工業化され、1906年(明治39年)に官営八幡製鉄所で切り板の鍍金として使用した後、1963年(昭和38年)にJIS H 8641が制定されている。

 国内初の溶融亜鉛めっき橋 流藻(りゅうそう)川橋 

国内初の溶融亜鉛めっき橋は、1963年(昭和38年)7月に施工されたH形鋼橋の流藻(りゅうそう)川橋である。当時のめっき槽は、長さ10m×幅1m×深さ1.2mと小さく、当時のめっき槽に浸漬が容易なH形鋼橋において採用する事例が多かった。
 その後、1964年(昭和39年)になると大型のI桁橋にも採用されるようになったが、桁高が大きく一度に部材全体をめっき槽に漬けることができないことから、上下反転して二度漬けする工夫がなされていた。1974年(昭和49年)になると、めっき防食法の採用事例も増加し、大型のめっき橋の施工事例も増加することとなった。事例としては、旧日本道路公団が初めて北九州市に足立高架橋(橋長62m、桁高1.7m)が代表事例の一つである。しかし、足立高架橋の場合には、連結部の連結板、高力ボルトは現在の溶融亜鉛めっき橋のようにめっきされておらず塗装されている。
 I桁橋以外の事例としては、1983年(昭和58年)に施工した志淵内沢橋がトラス橋として最初の採用事例である。また、四国横断自動車道の柴生第二高架橋が鋼箱けた構造として初めて採用され、めっき槽の制限から箱けたを2分割してめっき施工されている。このような経過を経て数多く建設された溶融亜鉛めっき橋の数は、2003年(平成15年)で約1000橋・12万トンとなっている。しかし数多く建設された橋梁の中には、架橋環境が適用可能でない条件でない橋梁もあり、著しい腐食から架設後10年で塗装によって補修された事例もある。また、溶融亜鉛めっきは鋼道路橋の主構造に適用する有効な防食法として使用される機会も増加してきたが、めっき槽を大型化できないことや製作上の工夫が必要なことから次第に主構造への使用は減少し、検査路や排水装置などの附属物に使用される事例が多いのが近年の特徴である。次に、溶融亜鉛めっきを道路橋に採用する場合、その後の維持管理までを「鋼道路橋防食便覧」の記述も含めて解説することとする。


              写真-1 架設後35年を経過した溶融亜鉛めっき橋

ご広告掲載についてはこちら

お問い合わせ
当サイト・弊社に関するお問い合わせ、
また更新メール登録会員のお申し込みも下記フォームよりお願い致します
お問い合わせフォーム