道路構造物ジャーナルNET

現状での集大成

津波と構造物――今年の5月末に報告書を出版

九州工業大学
工学部 教授

幸左 賢二 氏

公開日:2015.03.28

 九州工業大学の幸左賢二教授は、2004年のスマトラ地震の調査も行った津波と構造物研究のエキスパートであり、東日本大震災でも震災6日後にいち早く現場へ急行し、調査を行った。現地調査は既に15回に達している。豊富なフィールドワークと今までの経験、そこから導き出された報告書をこの5月に土木学会から上梓する予定だ。今回は短いインタビューであるが、その一端を聞いた。(井手迫瑞樹)

痕跡が消える前に・・・・・・
 震災6日後に現地入り

 ――震災後、すぐに自費で現場に入られましたが、そこまで駆り立てたものは何ですか
 幸左 スマトラ沖地震(2004年のマグニチュード9.1を記録した同地震名の中でも最大の地震)の調査の経験です。同地震の調査には、震災1年後に行きました。痕跡などは残っていましたが、震災直後の映像や写真が無く、津波の作用力(形状、方角、高さなど)がわからないため解析が思うように進まなかった、と感じたことがあります。日本政府は諸外国よりもよほど優秀で、忽ちのうちに道路を啓開し、現場を復旧していきますが、研究者としては痕跡が消えてしまうことを意味します。それでは津波による被害の姿がわからなくなってしまう、そんな焦燥に駆り立てられ、同様の考えを持った他5人の研究者と一緒に震災6日後に現場に入りました。
 拠点は天童に置きました。最初は内陸の大崎市古川(旧古川市)を調査に行きましたが、思いのほか損害が無かった。そのため、沿岸部への遠征を考えましたが、当時はご存知のとおりガソリンがありませんでした。そのためタクシーを借り上げて、津波の大きな被害が予想される沿岸部にいきました。

高くて強い構造物がなかった若林
 女川市内は20㍍級の津波

 ――どこに行かれたのですか
 幸左 石巻市内、仙台市若林区、女川町中心街、南三陸町志津川中心街および歌津地区です。どれもが酷かった。若林は見たときにはなぜこのように多くの人が亡くなられたのか分からなかった。波の高さも5~7㍍ぐらいでしたから。しかし現場の痕跡と映像および写真を照査すれば明らかですよね。現場は開けた平地だった、とにかく高くて強い構造物が周辺に無かった、避難せずに家の中に残った人が多かった、波の流速が非常に速く逃げるのが難しかった。女川の中心街では5階建て以上のビルが5棟以上倒れており、波の高さは18~20㍍以上が考えられました。また、歌津大橋も桁が落ちるなど大きな被害を受けていました。南三陸町の志津川市街部は高台を除いて無くなっていました。

4年で15回現地を調査

 ――その後もたびたび現場に足を運ばれています
 幸左 この4年で15回現場を訪れています。このほかにも陸前高田や名取市閖上など多くの現場を調査にいきました。行くたびに考えることは次にはどんなアプローチで調査をしようかという視点です。志津川であれば市内の八幡川沿いに焦点を絞って調査しようとかね。また調査を重ねていく上で重要なのは学際的な交流です。私は津波研究のプロではありませんから、土木研究所や防衛大学、港湾研究所、東北大学の研究者などに教えていただき、示唆を受けながら調査・研究を進めてきました。今年の5月末に土木学会から出す報告書は現状での集大成といえます。
 また、こうした学会活動だけでなく、現場に行くことで被災者の方々から色々な映像や写真をいただくことができ、波の形状や高さ、押し寄せてきた方向などを知る際非常に正確で豊富なデータとして活用することができました。この情報を元に動くことができたため現場の調査も試行錯誤を少なくし、効率的に行うことができたと思います。



  最初に現地入りしたのは震災から6日後、すでに15回被災地に足を運んだ

桁高が低く幅員が大きい橋梁は流失しにくい
 小河川は津波の遡上はなかった

 ――道路構造物でいうと、特に橋は同じ地域においても流出したものと残っていたものがありました。これはなぜでしょうか
 幸左 まず、津波の作用力(津波の流速と方角、形状などから算出、下の式参照)および構造物の抵抗力(重量、形状など)が桁の落下、流出を決めています。

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