道路構造物ジャーナルNET

-分かっていますか?何が問題なのか- ㊹高齢橋梁の性能と健全度推移について(その1)‐将来に残すべき著名橋になすべきことは‐

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎

公開日:2018.12.01

1.道路橋の技術基準はどのように変わったか

 道路橋に使われる技術基準は、人や車両等が渡る、添架物を渡す等の目的に沿って適切に機能するように考え方や設計、施工、維持管理の標準を示したものである。技術基準は、時代時代の種々な要求性能と、材料および技術レベルによって変えなくてはいけない。そこで、我が国の技術基準も明治時代から現代まで、時代とともに移り変わってきている。
 我が国の道路橋に関する技術基準は、明治時代に取り纏められた『国県道の築造標準』が最初である。これ以前に数多く建設された木橋や石橋の設計・施工は、職人技、経験工学によるものである。近代道路橋といえる鉄橋、長崎のくろがね橋(1868年・明治元年)以降に建設された明治時代初期の道路橋は、外国人技術者によってもたらされた技術によって設計・施工されている。
 次に、金属ではないコンクリートはどうであろうか? 国内初の鉄筋コンクリート橋は、1903年(明治36年)神戸市若狭橋であるが、橋長3.7mと規模が小さい。道路橋としてある程度の規模となると、先の鉄橋と同じ長崎県にある佐世保橋(橋長49.4m、支間長12m×4)で1906年(明治39年)建設である。プレストレストコンクリート橋となると、時は進み、戦後の1952年(昭和27年)建設の石川県にある長生橋(支間長3.6m)である。いずれも、担当技術者の技術力によってオーダーメイドの設計・施工である。木橋や石橋を数多く建設していた時代は、設計基準もほとんどなく、先にも示したがいわば技術職人の暗黙知に頼っていた。しかし、道路橋としての規模も大きくなり、建設数も多くなると当然、設計や施工の要領が必要となる。それが技術基準である。

 我が国の道路橋技術基準の変遷について調べてみよう。江戸幕府から明治新政府にバトンタッチされ、人や車馬が通る道路に関する種々な制度も整えられた時期に、先に示した『国県道の築造標準』が1886年(明治19年)に制定された。この中で、「橋梁ノ築造ハ橋面平積一坪ニ付き四百貫ノ重量ヲ橋上満面ニ積載シ得ルモノトナスヘシ」と作用荷重を定め、図面等の表示方法も示している。作用荷重を含めた技術取り纏めには異論もあり、1995年(明治38年)に大正官が決めたとの説もある。その後、自動車の交通が主となり、道路網整備を進める大正の初期においては、『国県道の築造標準』に記述された内容では律しきれない状態が生じた。それは、道路橋を設計する技術者自らが、それぞれの設計荷重を決め、設計に必要な許容応力度の設定も行っていたことにある。
『国県道の築造標準』が取り纏められてから28年後の1919年(大正8年)に道路法が制定され、活荷重と有効幅員などが定められた。しかし、この道路構造令は、道路および橋梁に関する極めて原則的な規定に留まっていることから技術基準としては不十分であった。このようなことから、運用上の便宜を図るために技術基準が必要となり、1926年(大正15年)内務省土木主任官会議において、『道路構造に関する細則案』が制定された。これには、材料、荷重、活荷重分布、許容応力度、部材の細長比、荷重の組み合わせに対する許容応力度の割り増し度などを定めている。街路、国道、府県道の道路橋を一等橋、二等橋、三等橋と規定したのも当該基準である。ここでようやく我が国も、技術基準を基に全国一律の道路橋設計が行われるようになった。
 大正8年と大正15年の間で、技術基準関連で特筆すべきことがある。それは、1923年(大正12年)に発災した関東大震災の復興事業を効率的に進める目的で、復興局独自の『復興局街路橋設計示様書』が取り纏められたことである。これは、これから説明する著名橋にも関係する内容で、分布荷重、自動車、転圧機の荷重を先の『道路構造に関する細則案』より大きく、また、国内で初めて地震力の加速度を水平加速度1/3g、鉛直加速度1/6gと示したことにある。大正の終わりから、第二次世界大戦までの震災復興および全国道路整備の時代には、技術基準も整備が進み、鉄筋コンクリート標準示方書が1931年(昭和6年)に土木学会、現在の示方書の原点とも言える『鋼道路橋設計示方書案』が1939年(昭和14年)に策定された。

 現行の道路橋示方書の基礎といえる『鋼道路橋設計示方書案』には、使用材料、建築限界、作用荷重、荷重分布、許容応力度に加え、曲げ強さ、リベットによる部材の連結、鈑桁、トラス、床組み、横構・対傾構、支承などの規定、設計細目が示された。技術基準の適用範囲は、支間長120m以下で、従来の一、二、三等橋を、国道と幅員8m以上の街路に建設する道路橋を一等橋、府県道と幅員4m以上8m未満の街路に建設する道路橋を二等橋と決めたのもこの時代である。これによって、国内の国道、地方道に建設されるべき鋼道路橋は、明瞭なる同一方針を基に統一され、設計の近代化に寄与したと言える。
 なお、鉄筋コンクリート道路橋の関連基準は、1931年(昭和6年)の『國道鐵筋混凝土丁桁橋標準設計案』があげられる。その後、1953年(昭和28年)に鋼道路橋設計示方書作成委員会が設置され、1956年(昭和31年)5月に戦後復興、経済設計の追求がなされた時代、現在耐久性の劣るといわれる橋梁が採用した設計基準『鋼道路橋設計示方書』、『鋼道路橋製作示方書』が制定された。現在の鋼橋とコンクリート橋が同一の示方書として示されたのは、1964年(昭和39年)『鋼道路橋設計示方書』『鉄筋コンクリート道路橋設計示方書』である。
 これ以降の道路橋の設計基準は、種々な解説文献や資料があるので私からの説明は省略するが、参考に表-1に明治年間から平成年間までの技術基準を整理したので見てもらいたい。次に、技術基準が変わると健全度判定結果にどの程度差異が出るのかについて分析した結果を説明しよう。


表-1 道路橋技術基準の変遷

ご広告掲載についてはこちら

お問い合わせ
当サイト・弊社に関するお問い合わせ、
また更新メール登録会員のお申し込みも下記フォームよりお願い致します
お問い合わせフォーム