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インタビュー詳細

ベンチャーからPCに必須な企業の軌跡

エスイー50周年 森元会長インタビュー

代表取締役会長 執行役員会長
エスイーグループCEO
森元 峯夫 氏

 エスイーは今年50周年を迎えた。同社の創業者である森元峯夫会長は、PC黎明期の1960年台中盤に、フランスに留学し、S.E.E.E工法に触れ、その構造もさることながら、考え方、作り方といったコンセプトそのものを日本に導入することを志した。その進取の意識とやり抜く持続力が今の会社の成長に至っている。その50年を森元峯夫会長に振り返ってもらった。(井手迫瑞樹)


フランスでカルチャーショック

 巨大なPC製原子力圧力機に遭遇

 ――50周年社史を拝見すると、まさに何も無い時から始められたんですね。スポンサーを獲得して、数年は赤字、黒赤分岐点を超えると以降はずっと黒字という足跡は、まるでAmazonのように感じました。最初は厳しかったでしょうが、当初を回顧してみていかがですか?

 森元会長 初めてフランスに留学したピー・エス・コンクリート(現ピーエス三菱)の主任研究員時代(1964~65年)に感じた最大のカルチャーショックは、我々がまだ小さなPC橋を造っている段階にもかかわらず、フランスではすでにPCの原子力圧力機を造っていた設計施工の現場を見たことです。大きな衝撃を受けました。そこで使用されていたのがS.E.E.E工法でした。

 また、設計をする前の理論や考え方、コンセプトといったものが、日本よりもはるかに高いレベルでした。S.E.E.E工法の凄さもさることながら、S.E.E.E工法の導入とともにソフト技術も導入したいと考えました。そうしないと日本のプレストレスト・コンクリート技術は大きく発展できないだろうと実感しました。

 帰国して会社に技術の導入を提案しましたが、当時は門前払いでした。ならば自分でするしかないと思い、フランスとの関係を作りながら優れたソフト技術を継続的に入手できるよう努めました。その手段として、S.E.E.E工法のような当時としては世界でも稀な工法を導入して事業化すれば、その事業化の過程でソフト技術や人材育成も行うことができると思いました。これが一番大きな動機です。


森元会長と大津社長とS.E.E.E社のジェルマン社長


2,500万円集めて創業

 会社を救った2人のArte

 ――それを実現するためには多くの資金が必要だったでしょう?

 森元 当時のお金で2,500万円を集めました。親にも500万円借金して、後は各社を回って奉加帳方式で資金を集めました。今の会社の将来を袖にしてでも、取り組む価値のある工法なんですか?とも言われました。当時の大卒初任給平均は21,200円ですから大変な額でした。創業は33歳の時でした。

 ――よく資金が集まりましたね。

 森元 当時は高度経済成長時代で、景気が良い時代でしたからね。

 ――創業時はだいぶ試行錯誤されたと思いますが。

 森元 工場を作るのにも半年以上かかりますし、S.E.E.E工法を生み出すための工法の材料、いわゆるマンション(スリーブ)を造るのにも半年ぐらいかかりました。ここでは新日鐵(現新日鐵住金)に協力していただきました。そうした企業のご協力も得られましたが、立ち上げに集めていたお金はすぐに枯渇してしまいました。そこで役に立ったのが、培った設計の腕です。当時のお金で500万円もする宮崎県発注の橋梁設計を請け負って、糊口をしのぎました。お金がなくなればまた設計を請け負い、得た資金を工場の設備投資や新技術導入に充てるといったことを繰り返しました。

 ――大津社長は、創業3年後の入社なのですね。

 森元 彼は仏文科の出身です。私がフランスに行き新しい技術の資料を持って帰っては2人で旅館に泊まり、徹夜で訳してゼネコンやファブリケーターに売りました。私の設計技術と大津の的確な訳文、この2つの芸(arte)が草創期の会社を助けました。